世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく

檻の中へ

璃子は、重いスーツケースを引きながら、新居の玄関をそっと開けた。

冷ややかな空気が、まるで歓迎していないかのようにまとわりついてくる。
薄いグレーの壁紙。
完璧に整理された空間。人の気配の薄い、モデルルームのような家。

「どうぞ。荷物、そこに置いてください」

リビングから聞こえた篠原の声は、相変わらず感情の起伏を排した淡々としたものだった。

璃子は小さく「お邪魔します」と言って靴を脱ぎ、床にスーツケースを置いた。
家の中は静かすぎて、自分の足音さえ気になる。

篠原はソファに座ったまま、横目で璃子を一瞥しただけで、すぐにタブレットに視線を戻した。

「部屋は二つあるので、好きな方を使ってください。風呂と洗濯機の使い方は説明書が置いてあります」

「……ありがとうございます」

「ルールを一応共有しておきます。家事は基本的に分担。ただし僕は帰宅が不規則なので、必要なら外注も可。生活費は僕が出しますが、あなたが働きたいなら構いません」

璃子は、説明書のような言葉に小さく頷いた。

形式的で、ビジネスライクで、すべてが「契約の一環」のようだった。

ここには、温度がない。
いや、温度を拒絶するように作られた家――。

璃子はそっと首元のネックレスに触れた。
それだけが、今の自分にとっての体温だった。

「荷ほどき、してきます」

そう言って部屋の奥に歩いていく背中に、篠原は何も答えなかった。
沈黙は、この家にもっとも馴染む音だった。
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