世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
カトラリーの音だけが、静まり返ったダイニングに響いていた。
向かい合って座るのに、会話は一言もない。
璃子は、自分の手元のサラダをゆっくりと口に運びながら、ふと視線を上げた。
篠原恭介。
今、目の前にいるこの男。
彼は十代でヨーロッパに渡り、数々の国際コンクールで入賞。
二十代にしてベルリン・フィルと共演を果たした、バイオリン界の若き旗手。
完璧なテクニックと緻密な解釈で、常に高評価を得る。
演奏に一切の情緒を排しているとも言われるが、それが彼の持ち味でもある。
だが、裏を返せば――
「人との距離を縮めることに興味がない」
「音楽以外には無関心」
「共演者ともほとんど会話しない」
……そんな噂が絶えなかった。
実際、こうして生活をともにしてみても、それが誇張でないことはすぐにわかる。
璃子が水を飲もうとしたとき、篠原がふいに口を開いた。
「サラダ、ドレッシングが多すぎませんか?」
「……あ、すみません。自分でかけすぎちゃって」
「塩分が多いと浮腫みますよ。演奏に影響します」
淡々とした言い方なのに、なぜか指摘というより、評価されているような気がした。
そしてその評価には、感情の余白がまったくない。
「気をつけます」
それしか言えなかった。
彼は再び黙々とナイフとフォークを動かす。
完璧に磨かれたテーブルマナー。音を立てない食べ方。
すべてが「正しい」のに、なぜこんなに苦しいのだろう。
璃子はそっと視線を落とし、足元の床を見つめた。
この生活が、あと何日続くのか。
そして、自分の中の「音」が、どこまで耐えられるのか――
わからないまま、箸を動かすふりだけを続けていた。
向かい合って座るのに、会話は一言もない。
璃子は、自分の手元のサラダをゆっくりと口に運びながら、ふと視線を上げた。
篠原恭介。
今、目の前にいるこの男。
彼は十代でヨーロッパに渡り、数々の国際コンクールで入賞。
二十代にしてベルリン・フィルと共演を果たした、バイオリン界の若き旗手。
完璧なテクニックと緻密な解釈で、常に高評価を得る。
演奏に一切の情緒を排しているとも言われるが、それが彼の持ち味でもある。
だが、裏を返せば――
「人との距離を縮めることに興味がない」
「音楽以外には無関心」
「共演者ともほとんど会話しない」
……そんな噂が絶えなかった。
実際、こうして生活をともにしてみても、それが誇張でないことはすぐにわかる。
璃子が水を飲もうとしたとき、篠原がふいに口を開いた。
「サラダ、ドレッシングが多すぎませんか?」
「……あ、すみません。自分でかけすぎちゃって」
「塩分が多いと浮腫みますよ。演奏に影響します」
淡々とした言い方なのに、なぜか指摘というより、評価されているような気がした。
そしてその評価には、感情の余白がまったくない。
「気をつけます」
それしか言えなかった。
彼は再び黙々とナイフとフォークを動かす。
完璧に磨かれたテーブルマナー。音を立てない食べ方。
すべてが「正しい」のに、なぜこんなに苦しいのだろう。
璃子はそっと視線を落とし、足元の床を見つめた。
この生活が、あと何日続くのか。
そして、自分の中の「音」が、どこまで耐えられるのか――
わからないまま、箸を動かすふりだけを続けていた。