世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
翌朝。
ダイニングには、上質な無垢材のテーブル。その上に、璃子がなんとか準備した簡単な朝食が並んでいた。

トースト、スクランブルエッグ、カットフルーツ。それだけの、ごく普通の朝。

篠原恭介は、無言で席に着き、ナイフとフォークを手に取る。
璃子も向かい側に座ったが、テーブルを挟んだその距離が、やけに遠く感じられた。

カチャリ。
食器の当たる音が、静けさを際立たせる。

「……味、大丈夫ですか?」

璃子は意を決して訊ねた。
恭介は、フォークの先を止めずに答える。

「問題ないよ。ありがとう」

たったそれだけの言葉。
社交辞令のような、機械的なやり取り。

璃子は、うすく微笑みながらトーストに手を伸ばす。

内心では、湊の「これ美味しいですね。」というフランスでの朝食の明るい声を思い出していた。

「今日の予定は……?」

「ああ、午後からホールで合わせがある。その後はリハ。夜は先生との会食だ」

「……そうなんですね。行ってらっしゃいませ」

「うん」

また沈黙。
まるで「同居人」として最低限の会話を交わしているかのような距離感。

心は、ぬるま湯のように曖昧で、何も染み込んでこなかった。
ただ、首元で小さく光るネックレスだけが、彼女の本音と孤独をそっと抱いていた。
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