世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
その日から、くだらない抵抗をやめた。
わざと片づけをしないとか、料理を失敗したふりをするとか。
今思えば、あれは本当に――幼稚だったかもしれない。

私だって、冷酷に生きることくらいできる。
何もしない。ただ、妻という役割を演じるだけ。

感情を切り離して、空っぽの顔で淡々と日々を過ごす。
まるで、今までと何も変わらない。

母が私に求めた、「優秀な娘」
間違えず、はみ出さず、期待に応えることだけを生きがいにした優等生。

それと、何も変わらない。

私はあの時、家を出て、自分の足で立とうとした。
湊さんと話して、初めて「選びたい」と思えた。
ピアノで結果を出して、やっと誰かに認められた気がした。
――少しは、変われたと思っていた。

でも、それは気のせいだった。

ほんの少し、夢を見ただけ。
現実は、何も変わっていない。

私はまた、元の場所に戻ってきただけだ。

――見えない鎖が、ずっと私をつなぎとめていた。
どこに逃げても、どれだけ叫んでも、結局は。

この家の「娘」であることから、逃れられない。

璃子は鏡の中の自分をじっと見つめる。
整えられた髪、控えめなメイク、無表情な顔。

「……似てきたな」

ふと漏れたその言葉は、自分に向けたものか、それとも――母に対してか。

胸元のネックレスに触れようとして、けれど、今日は触れなかった。
心のどこかで、あれすらも夢だったんじゃないかと思えてしまいそうだったから。
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