世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
昼食の時間。
今日のメニューは、ごく普通のトマトとバジルの冷製パスタ。
少し前までの私なら、彼の好みに合わせてもうひと手間かけたかもしれないけれど、今はもうそういうことを考えるのもやめた。

フォークで麺を巻きながら、無言のまま時間が流れる。
その沈黙を、珍しく篠原が破った。

「家事、適当にやるのやめたんだね」
口元がほんのわずか、綻んだ気がした。

「……すみませんでした。幼稚なことをして」

感情を交えずに返したつもりだった。
謝ることすらも、もうどうでもよくなっていた。

「僕と結婚するの、嫌なんですか」

あまりにもストレートすぎて、返す言葉が見つからなかった。
俯いたまま、何も言えない。
何と言えば正解か、わからなかった。

「いずれ籍を入れれば、一応“妻”なんで。妻らしくはしてもらわないと」

その言葉に、喉元まで出かかった。

――だったらあなたも、夫らしくして。

でも、それは呑み込んだ。
口に出したところで、何が変わるというのか。

「……妻らしく、とは?」
できる限り平静を装って問い返す。

「多少は――信じてもらわなきゃ、どうにもならないでしょ」

信じる?
何を?

問いはまた、心の中だけにしまった。
口に出すべきでないことは言わない。
そうやって育てられた。
そうやって、ずっと生きてきた。

けれど、呑み込んだ言葉はどこにも消えてくれない。
胸の奥に、重く、鈍く、積み上がっていく。

まるでブロックみたいに。

そのブロックに押しつぶされる前に、私の中の何かがきっと、音を立てて崩れる。
そう遠くないうちに。

私はフォークを置き、淡々と食器を片付け始めた。
今日も、妻という仮面をかぶったまま。
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