世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
彼の手が、そっと肩へ伸びるのが見えた。

思わず身を引きそうになって、ぐっと奥歯を噛んだ。
涙は、もう引っ込んだはずだった。
それなのに、また目の奥が熱くなっていく。

――この人なら、もしかして。
嬉しくて泣いてるって、そう思うかもしれない。

そんな想像が一瞬よぎって、余計に震えが走った。
自分でもおかしいと思うほど、体が強張っていた。

笑ってごまかしたいのに、口角はひとつも上がらなかった。
悟られないようにと息を殺したけれど、
手のひらが、指先が、どうしようもなく震えていた。

篠原は、その震えに気づいたのか――あるいは、気づいても気づかないふりをしたのか。

小さく、悲しそうに笑った。

「……いずれ妻になる人に、そんなに怯えられるとはね」

その声に責める色はなくて、ただ静かだった。
諦めとも、嘲笑とも違った。

彼は立ち上がらず、近くのソファの肘掛けにかかっていた膝掛けをそっと手に取り、
璃子の膝の上に、ふわりと広げた。

言葉もなく、それ以上の動作もなく。
ただ、冷えた足元を労わるように。

璃子は視線を落とした。
微かに膝にかかる重み。
初めて感じた。――この人にも、人間らしい一面があるのかもしれない、という感覚。

けれどそれでも、不安も恐れも消えはしなかった。
優しさですら、どこかぎこちなくて、何かの予兆のように感じてしまう。
目の奥の熱を堪えるたび、喉が苦しくなった。

この沈黙のあとに来るものが、どうか嵐でありませんようにと、
ただ静かに願っていた。
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