世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
ソファの上で、璃子はひとり膝を抱えていた。

この家に来てから、まだ数日しか経っていないのに、何週間も閉じ込められているような感覚だった。

時計の針は、もうすぐ夜十一時を指そうとしている。

彼――篠原恭介は、まだシャワーを浴びていた。
浴室の扉の向こうから、一定のリズムで水音が響いてくる。

その音が、やけに大きく感じられた。
心臓の鼓動と、喉を締めつけるような不安が、だんだん重なってくる。

(……このあと、どうすればいいのだろう)

その問いは、あまりにも曖昧で、けれど切実だった。
何が「正解」なのかも、何が「普通」なのかも、わからないまま。

まだ、何かが起きたわけではない。
けれど、起きうる何かに対する想像が、じわじわと身体を縛っていく。

逃げたらどうなる? 拒んだら? 怒らせたら?
彼は決して乱暴ではない。
ただ、笑顔の奥に沈んでいるものが、どうしても読めなかった。

そして何より――璃子自身が、璃子の心を読みきれていなかった。

この場所で、“それなりの振る舞い”を求められることが当然のように思えてしまう自分が、どこかにいた。

(私の意思って、どこにあるんだろう……)

脚に力が入らない。
体の芯が、じわじわと冷えていくような感覚。
暖かい部屋なのに、震えが止まらなかった。

せめて、今夜だけでも、何も考えずにいられたら。
そんな願いが、胸の奥で音もなく浮かんだそのとき――
スマートフォンが、ふいに震えた。
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