世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
篠原はお風呂から上がると、自然とキッチンへ向かい、ケトルから湯をポットに注いだ。
温かいお茶を淹れ終えると、そっとソファの前のテーブルに置いた。
その後、さっきよりもほんの少しだけ距離を開けて腰を下ろす。

璃子は目を合わせずに、小さな声で「ありがとうございます」とだけ言った。

篠原の声は穏やかで、どこか柔らかさを帯びていた。

「初めは、親が決めた相手だと思って、どことなく警戒してたよ、君に対して。
でも、食事の時に、僕がよく箸を進めるものとか、ちょっとした拍子にコンビニで買っているものを覚えてて、冷蔵庫に買い置きしてくれてたりしたよね。
君は、人をよく見てる。」

「お嬢様なんて、何でも与えられてありがたみも知らないものだけど、君は違う。
料理をしても、ゴミも野菜の切り方も無駄がなくて大切に使ってる。

まあ、家事をわざと適当にやったときは正直ムッとしたけど、君の葛藤も理解するのが……

夫の役割だよね。」

篠原の「夫」という言葉に、璃子の胸はぎゅっと締めつけられた。
まだ乾ききらない頬の涙を見て、彼は少しだけ眉をひそめ、
「また泣いたの?」と尋ねた。

「僕が君に何を与えられるのか、まだわからない。
でも、傷つけたいなんて思っていない。
璃子さんのために、できることを考えたい。」

その「璃子さんのために」という言葉を聞いて、璃子は無意識に、母の「あなたのためなのよ」という言葉を重ね合わせた。

私のためと言いながら、実はいつも自分のため。
それが、これまでのすべてだった。
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