世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
少しの沈黙のあと、篠原が静かに言った。
「今日は、一緒に寝ようか。」

璃子の体に、瞬間的に緊張が走った。
喉の奥が詰まったように、思わず言葉が震える。

「……な、なんでですか?」

篠原は軽く目を見開き、それから少しだけ困ったように微笑んだ。
「なんでって……寝室にしかベッドがないからだよ。これまでは書斎のソファで寝てたけど、さすがに毎晩じゃ身体が痛くてね。……まあ、一応の配慮だったつもりだけど」

その説明に、璃子はわずかに息を吐いた。
「あ……そうだったんですね」

しかしその言葉に安心しかけた瞬間、脳裏に母の声がよみがえる。
《相手に不快な思いをさせないよう、心を配って。》
喉の奥がひりつくようだった。

篠原は穏やかな表情を崩さず、立ち上がって寝室へと向かう。
璃子も、その後ろを一歩一歩、緊張を抱えながらついていった。
廊下の照明が足元を照らす中、寝室の扉が静かに開かれる。

部屋の中は、柔らかな間接照明が灯る静かな空間だった。
ベッドのシーツはすでに整えられ、枕がふたつ並んでいる。

ほんのりとラベンダーの香りが漂い、清潔で整った空間が、かえって璃子の心を強張らせた。

篠原はベッドの端に腰を下ろし、隣を手で軽く叩いて誘った。

璃子は迷いながらも、その隣にそっと座る。

その瞬間、篠原が彼女の手をそっと取った。
優しく、あたたかく――けれど、璃子にはその手が恐ろしく感じられた。

まるで見えない線を越えられそうな気がして、心臓がひどく騒ぐ。
璃子は目を伏せ、視線を合わせないようにしたが、指先の震えまでは抑えきれなかった。

「……どうしても、しないと、だめですか……?」

それは息が擦れるような、かすかな声だった。
篠原の手が止まり、璃子の指をそっと放す。

「……ごめん。そういうつもりじゃなかった」

彼は立ち上がり、ベッドサイドのチェストを開けて、そこから小ぶりの毛布を取り出した。
そしてふたたび璃子の隣に戻り、軽く距離をあけて腰を下ろすと、毛布をそっと璃子の肩にかけた。

「……泣いてたから、少しでも安心してほしかっただけなんだ。……本当に、ごめん」

その静かな一言に、璃子の中で何かがぷつりと切れた。
押し込めていた感情があふれ出し、しゃくりあげるように泣き出す。

「……っ、う、うぅ……」

篠原は慌ててベッドの枕元に置いていたハンドタオルを取り、無言で差し出した。
自分の手が届く範囲ぎりぎりで差し出されたそれは、どこまでも優しく、どこまでも慎重だった。

「……難しいな」
そう呟きながら、彼は照明のリモコンを手に取り、明かりをひとつ落とした。
部屋がやわらかい半暗がりに包まれる。

しんとした空気の中、璃子は毛布に包まれたまま、涙の余韻に身を任せていた。
彼の距離、光の加減、空間の静けさ――どれもが「踏み込まない」という意思のあらわれのように思えた。

お試しのはずの同居生活。
名ばかりの「婚約前提」の時間。
優しさすら怖くなるような、ぎこちない毎日。

けれどその夜、璃子はほんの少しだけ、思った。
この距離は、壊さなきゃ進めないものじゃない。
いつか、ゆっくりと開いていけるのかもしれない。
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