世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
その日も遅くに帰宅した。
レッスン、ミーティング、そして長引いた演奏会の打ち合わせ。
腕時計の針は日付を回っていたが、部屋の灯りはまだほのかに漏れていた。
音を立てぬようにドアを開け、荷物を下ろす。
スーツの上着を脱ぎながら、そっと寝室を覗いた。
璃子は、もう眠っていた。
浅い呼吸。
目元にはまだ腫れが残る。
ほんの数日前、泣きながら「どうしてもしないとだめですか」と声を震わせたあの夜。
彼女を受け入れることも、拒絶することもできず、結局あの夜も寝室は別だった。
彼女のあんな表情を見て、自分の手を伸ばす資格があるのかすら分からなくなった。
ただただ、可哀想で。
そして、それ以上に――自分の心がもたなかった。
「こんな感情を、自分が持てるとは」
戸惑いながら、初めて知った感情だった。
優しさと、後悔と、痛みがないまぜになっていた。
ふと彼女の寝顔に視線を戻す。
少し眉間に皺が寄っている。まだ、完全には安らげていないのかもしれない。
それでも今は、眠れている。それだけでほっとする。
そのときだった。
彼女の唇が、かすかに動いた。
囁くような寝言。
「……みなと、さん……」
息が止まるような気がした。
「湊」――
一瞬、名前が記憶から出てこなかった。
だがすぐに、その男の顔が浮かんだ。
ピアノメーカーKANEROの御曹司。
彼女が時折スマートフォンで見ていた、ピアノコンクールの写真に映っていた男。
彼女は、その写真を見るたびに微笑んでいた。
俺はてっきり、自分が参加したコンクールの映像に対する安堵か、感謝だと思っていた。
違う。
あの目の奥の温度は、俺には向けられたことがなかった。
今、ようやくわかった。
――あれは、金城に向けたまなざしだった。
すべてが腑に落ちた。
俺に怯えるのも、触れられるたび身体を強張らせるのも、
理由なんて複雑じゃなかった。
彼女の中で、答えはもう出ていたのだ。
静かに寝室のドアを閉じた。
足音を殺して書斎へ向かい、ソファに身体を沈める。
ぐらりと心が揺れた。
彼女の中には、自分以外の誰かがいた。
それを責めるつもりはなかった。
ただ、ただ――
その事実に気づかず、彼女を苦しめていた自分を恥じた。
寝言一つで、これほど救われることがあるだろうか。
俺は、彼女を無理に受け入れさせようとしていた。
彼女の気持ちより、形式を優先させようとしていた。
「……気づけて、よかった」
寝ている彼女に、間違ったまま触れずに済んだ。
これ以上、彼女を“正しい枠”に押し込まずに済む。
誰のものでもない彼女が、
誰かを想い、誰かに守られ、
ようやく本当の意味で笑える日が来るなら――
その未来に、自分がいなくてもいい。
篠原は深く息を吐き、ソファに身体を預けた。
灯りを落とし、静かに目を閉じる。
彼女の人生を、これ以上傷つけないように。
明日、決めよう。
この同棲の終わりを、俺の口から告げると。
レッスン、ミーティング、そして長引いた演奏会の打ち合わせ。
腕時計の針は日付を回っていたが、部屋の灯りはまだほのかに漏れていた。
音を立てぬようにドアを開け、荷物を下ろす。
スーツの上着を脱ぎながら、そっと寝室を覗いた。
璃子は、もう眠っていた。
浅い呼吸。
目元にはまだ腫れが残る。
ほんの数日前、泣きながら「どうしてもしないとだめですか」と声を震わせたあの夜。
彼女を受け入れることも、拒絶することもできず、結局あの夜も寝室は別だった。
彼女のあんな表情を見て、自分の手を伸ばす資格があるのかすら分からなくなった。
ただただ、可哀想で。
そして、それ以上に――自分の心がもたなかった。
「こんな感情を、自分が持てるとは」
戸惑いながら、初めて知った感情だった。
優しさと、後悔と、痛みがないまぜになっていた。
ふと彼女の寝顔に視線を戻す。
少し眉間に皺が寄っている。まだ、完全には安らげていないのかもしれない。
それでも今は、眠れている。それだけでほっとする。
そのときだった。
彼女の唇が、かすかに動いた。
囁くような寝言。
「……みなと、さん……」
息が止まるような気がした。
「湊」――
一瞬、名前が記憶から出てこなかった。
だがすぐに、その男の顔が浮かんだ。
ピアノメーカーKANEROの御曹司。
彼女が時折スマートフォンで見ていた、ピアノコンクールの写真に映っていた男。
彼女は、その写真を見るたびに微笑んでいた。
俺はてっきり、自分が参加したコンクールの映像に対する安堵か、感謝だと思っていた。
違う。
あの目の奥の温度は、俺には向けられたことがなかった。
今、ようやくわかった。
――あれは、金城に向けたまなざしだった。
すべてが腑に落ちた。
俺に怯えるのも、触れられるたび身体を強張らせるのも、
理由なんて複雑じゃなかった。
彼女の中で、答えはもう出ていたのだ。
静かに寝室のドアを閉じた。
足音を殺して書斎へ向かい、ソファに身体を沈める。
ぐらりと心が揺れた。
彼女の中には、自分以外の誰かがいた。
それを責めるつもりはなかった。
ただ、ただ――
その事実に気づかず、彼女を苦しめていた自分を恥じた。
寝言一つで、これほど救われることがあるだろうか。
俺は、彼女を無理に受け入れさせようとしていた。
彼女の気持ちより、形式を優先させようとしていた。
「……気づけて、よかった」
寝ている彼女に、間違ったまま触れずに済んだ。
これ以上、彼女を“正しい枠”に押し込まずに済む。
誰のものでもない彼女が、
誰かを想い、誰かに守られ、
ようやく本当の意味で笑える日が来るなら――
その未来に、自分がいなくてもいい。
篠原は深く息を吐き、ソファに身体を預けた。
灯りを落とし、静かに目を閉じる。
彼女の人生を、これ以上傷つけないように。
明日、決めよう。
この同棲の終わりを、俺の口から告げると。