世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
朝。
目を覚ました瞬間、胸の奥がザワリとした。
眠ったはずなのに、疲れが抜けていない。
目を開けても、世界はまだ灰色がかって見えた。

天井をぼんやりと見上げたまま、昨夜の記憶を手繰り寄せる。

……何か、夢を見た気がする。
でも、何を見たかは思い出せなかった。
ただ、名前を呼んだ感覚だけが生々しく残っている。

「……湊さん」

無意識に、口の中でその名を転がした瞬間、
胸が締めつけられるように苦しくなった。

寝返りを打とうとして、ふと気づいた。
寝室には、もう誰の気配もなかった。
隣に篠原さんはいない。布団も乱れていない。

――最初から、ここにはいなかったのだ。

それに気づいたとき、不思議なほど安心している自分がいた。
罪悪感と安堵が、ひどく矛盾していて、自分でも気持ちがわからない。

身体を起こしてリビングに向かうと、テーブルの上に一枚のメモが置かれていた。

「朝食は冷蔵庫に。午後から出張なので、戻りは明日になります。」

いつもの丁寧な字。
必要以上のことは書かれていないのに、不思議と彼の「間」が伝わってくる。

昨夜、彼が寝室に来なかった理由。
もしかしたら――

「……聞かれたのかな、寝言」

呟いた瞬間、顔が熱くなる。
寒さでも羞恥でもない。
身体の芯から揺らされるような、どうしようもない感情。

(私……そんなことまで、夢の中で言ってたんだ)

湊さんのことを想ってる自覚は、ずっとあった。
でも、それを誰にも知られないように――
この部屋では、特に彼の前では、心を固く閉ざしてきたはずだった。

それでも、夢は嘘をつけなかった。

彼の優しさに何度も戸惑いながら、それでも心は彼ではない誰かを求めていた。
その矛盾を、自分はまだ処理できないままでいる。

もう一度、テーブルのメモを見つめる。

(彼は、気づいたのかもしれない)

もしそうだとしたら、次に彼が口にする言葉は――

終わりの予感が、微かに胸をかすめた。
でも不思議と、怖くはなかった。
何かが壊れていく音が、ようやく、自分を自由にしてくれるような気がした。

その朝は、静かに始まった。

でも、もう元には戻れない。
< 122 / 217 >

この作品をシェア

pagetop