世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
玄関の鍵が回る音がして、璃子はゆっくりと顔を上げた。

時計は夜の九時を少し過ぎたところ。
音楽もテレビもつけていなかった部屋は、気配の一つで空気が変わる。
靴音。コートを脱ぐ衣擦れ。
日常のはずなのに、今日はそのすべてが、決定的なもののように聞こえた。

「ただいま」

篠原の声は変わらず落ち着いていた。
でも、どこか柔らかすぎる。
まるで、氷が解けるように。少しずつ、形を手放すような響きだった。

「おかえりなさい」

璃子は立ち上がって言った。
台所には用意だけして手をつけなかった食事が並んでいたけれど、それには触れず、二人の距離だけが静かにあった。

篠原は書斎に荷物を置いた後、リビングに戻ってきて、ソファの対面に座った。
小さく息を吸って、短く目を閉じる。
その仕草だけで、璃子は悟った。

――あ、もう終わるんだ。

けれど、口を挟むことはできなかった。
まだ聞いてもいないその言葉が、ひどく正しい気がして。

「璃子さん」

その名を、彼は丁寧に呼んだ。
まるで、誰かのものになってしまった名前に最後の敬意を示すように。

「僕ね、この一ヶ月、自分の気持ちを探るために、一緒に暮らしてきたつもりだった。
でも、もう気づいてるんだと思う。君が、僕といることで、だんだん息ができなくなっているって」

璃子は、何も言えなかった。
否定も肯定もできなかった。
その通りだったから。

篠原は、ゆっくりと言葉を継ぐ。

「君が悪いわけじゃない。むしろ、君は、僕に対して一生懸命向き合おうとしてくれた。
でも、君が夜、眠れずにいることも。僕に触れられるたびに、身体がほんの少し震えることも……気づかないふりをしてきた」

一つ一つの言葉が、丁寧に選ばれていた。
誰も傷つけないように。
でも、それが逆に痛かった。

「璃子さんが、僕の隣にいて不安になるくらいなら……」

彼は、そこで一瞬、言葉を切る。

「……もう、この“お試し”は、終わりにしよう」

心の奥で、何かが小さく崩れた音がした。

悲しいというよりも、ただ静かに、終わったのだと思った。
何かが正しく閉じられる、その感覚。

「ありがとう」

璃子は、声を震わせずに言った。
それだけで、今の自分を褒めてやりたいほどだった。
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