世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
璃子は、朝から黙々と身の回りの荷造りをしていた。

一緒に使っていた食器も、洗って水気を拭き取り、元あった位置へ戻す。
洗面所の鏡も、窓の桟も、普段見ない場所まで丁寧に拭き取って、最後に掃除機をかけた。

キッチンでは、篠原が好んでいたおかずをいくつか作り置きした。
きんぴらごぼう、だし巻き卵、さつまいもとレーズンのサラダ。
冷蔵庫にラップをかけて並べると、それだけで不思議と台所が誰かを待っているような空気になった。

――あの人が、今日も帰ってくる部屋なんだ。

でもそこに、もう自分はいない。

冷蔵庫に貼ってあった自分のメモを一枚ずつ剥がし、篠原のジャケットにアイロンをあて、最後に一度、部屋を見渡した。

カーテンを開け、朝の光が差し込んだリビングで、小さく一礼する。

「……ありがとうございました」

その声が、誰にも届かないことは分かっていた。
でも、言葉にすることで、ようやく心が置いていけた気がした。

玄関を出て、鍵をポストに落とす。
金属の音が乾いた音を立てて響くと、そこが“もう他人の場所になった”と知らされるようだった。

璃子は、最後に一度だけドアを振り返る。
そこには何の感情も浮かべず、ただ、静かに歩き出した。

向かう先は、実家ではない。
あのボロアパートでもない。
母には、まだ連絡していない。

けれど、行くべき場所はもう決まっていた。

KANEROのピアノ工房――
無骨な空気の中で、音と向き合う人がいる場所。
心がほっとして、嘘をつかなくていい場所。

璃子の歩幅は、少しずつ自然と大きくなっていく。
その一歩一歩が、誰のためでもない“自分の選択”として、静かに刻まれていた。
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