世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく

音のない再会

「この高さで揃えると、鍵盤の反発が少し軽く感じるでしょ。試してみて」

湊はピアノのアクション部を覗き込みながら、隣で控える新人職人に声をかけた。

「……あ、本当ですね。指が返ってくる感覚が、ちょっと違います」

「でしょ? この感覚が嫌って人もいるから、一概には言えないけど。でも“演奏者が心地よく感じる微差”って、意外とこの辺にあるからさ」

「なるほど……すごい。前に調整した時、音は合っててもなんか“弾きにくい”って言われたのが、こういうことなんですね」

湊は小さく頷いて、軽く笑った。

「“なんか”を“これだ”にできるようになるのが、一人前」

「はい!」

大学で講義を抱える父・創に代わって、最近は工房にも頻繁に顔を出すようになった。

本来なら現場より舞台にいるべき人間かもしれないが、湊はこの空間が嫌いではなかった。

木の香りと金属の音、若い職人の目に宿る静かな情熱――自分に足りなかったものを思い出させてくれる場所。

午前の作業が一段落すると、周囲の職人たちが工具を置いて、飲み物を手に各々の場所で一息つく。

湊も、そっと手を止めて椅子から立ち上がる。

「……ちょっと、外の空気吸ってくる」

そう告げて扉を開けると、まぶしい昼の光とともに、風がふっと頬をなでた。

そして、次の瞬間。

そこに――
いてはいけないはずの人が、立っていた。

彼女は、KANEROの看板の横に、まるで何かを確かめるように立ち尽くしていた。

長い髪が風に揺れ、小さく肩をすぼめている。
その指先には、見慣れたピアノ用の布トートが握られていた。

湊の胸が、不意に強く鳴る。

朝比奈璃子――
あの、儚く、強がって、そしてどこか投げ出しそうに生きていた彼女が、
ここに、いる。

なぜ?

一体、どうして――

けれど湊は、問いを言葉にするよりも先に、ただその場に立ち尽くしていた。
陽の光の中に佇む彼女が、夢の中の幻のように、すぐ消えてしまいそうだったから。
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