世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
工房を抜け、湊に導かれて本社の社屋に入ると、
そこはまるで美術館のような静謐さに包まれていた。

ひらけたロビーの中央に、ひときわ目を引くピアノがある。
漆黒の艶、優美な曲線、鍵盤の端正な佇まい。

──あの日、藤ヶ谷百貨店で出会った、あのピアノだった。

璃子は、ぴたりと足を止める。
「これ……」

湊はその隣で静かに頷いた。
「覚えてる?」

「……私が初心者のふりをして、最初に触ったピアノ。
 湊さんと、出会った場所。
 私たちを、出会わせてくれたピアノだね」

璃子の指先が、そっとピアノの表面に触れる。
まるで感謝の気持ちを込めるように、やさしくぽん、と二度叩いた。

「ありがとう」

湊がピアノ椅子に腰を下ろして、目を細める。
「……一緒に、弾く?」

璃子は迷いなく頷き、隣に座る。
距離は近く、ぴたりと肩が触れるほど。
一瞬、湊と目が合い、ふたりはふっと微笑み合った。

息を合わせ、鍵盤に指を乗せる。

──♪──

流れ出したのは、モーリス・ラヴェル《マ・メール・ロワ》より〈眠れる森の美女のパヴァーヌ〉。
夢のように静かで、繊細で、あたたかい。
ひとつひとつの音が、まるでガラス細工のように丁寧に紡がれていく。

その旋律は、ふたりの指先が語り合うように、
優しく絡み合い、支え合いながら流れていった。

出会い、すれ違い、迷い、そして再び向き合った二人が
今、ようやく同じ旋律を奏でている。

ロビーにはふたりの音しか存在していなかった。
いや、ピアノそのものがその時間を祝福するかのように──
あの日、彼女を引き寄せた楽器が、再びふたりを結んでいた。

そして、音楽が問いかける。

「ここから、ふたりで歩いていく?」

それは、約束にも似た旋律だった。
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