世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
金城家のリビングには、午後の日差しが柔らかく差し込んでいた。
無垢材のテーブルの上には、湊が淹れてくれたままのコーヒーカップ。
すでにぬるくなった中身を見つめながら、璃子はふぅと息をついた。
少しだけ鼓動が速くなる。
テーブルの上に置いていたスマートフォンを手に取り、
一度画面を消してから、もう一度見つめる。
「母」の名前。
指が震えそうになりながら、発信ボタンを押した。
数回のコールのあと、きっちりした声が電話の向こうから聞こえてくる。
「もしもし?」
「……お母さん、私、璃子」
「なによ、いまさら。篠原さんとは、どうなってるの?」
予想通りの言葉に、少しだけ喉が詰まった。
璃子は意を決して、静かに口を開く。
「……恭介さんから、お断りされました」
一瞬、間があった。
「……はぁ。まったく、あなたって子は……」
呆れたようなため息が、受話器越しに届く。
「せっかく相手はちゃんとした家柄で、音楽家としても申し分なかったのに。
どうせまた、あなたが感情的になって面倒なことを言ったんでしょう?」
「……ううん。私、ちゃんと伝えようとした。でも……それでも駄目だったの。
彼が、自分から『この同棲は無理だ』って……言ってくれたの」
再び、由紀子の沈黙。
「……まあ、篠原さんの方から断られたのなら、仕方ないわね。
向こうのご両親にも恥をかかせなくて済んだ。
……あの子なら、またいい人が現れるでしょうし」
突き放すようでいて、どこか安堵すら感じられる声音だった。
由紀子の中で「失敗」として処理されたのだろう。
璃子はその温度差に、どこか冷めた気持ちで「うん」とだけ答えた。
「それで? 今はどこにいるの? 実家には戻ってないようだけど」
「……うん。いま、金城さんのところにいる。KANEROの……」
「はあ? あの人と? ……また厄介なことになるわよ、璃子。
あの人たちとは最初から何もないって言ってたじゃない」
「気づいたの。私、音楽が嫌だったんじゃなくて、
誰の期待にも応えられない自分が怖かっただけなんだって」
「また、わけのわからないことを……」
「お母さん、もう……私は自分の足で歩きたい。
それがどんなに遅くても、遠回りでも」
由紀子は、今度は返事をしなかった。
ほんの数秒の静寂のあと、聞こえたのは、かすかに小さな、でも確かな声。
「……そう。好きにしたらいいわ。
どうせもう、母親の言うことなんて聞かないんでしょう?」
その言葉は、怒りよりも、どこか諦めにも似ていた。
「……ありがとう。連絡だけはしたかったの」
「……そう。じゃあ、お父さんには伝えておくわ」
ぷつりと通話が切れた。
璃子はスマホをそっと置き、長く息を吐いた。
そして──
カップの冷めたコーヒーを口に運びながら、心の中に、小さな決意を灯した。
母の期待ではなく、誰の型でもない、自分の音で。
これから歩き出すのだと。
無垢材のテーブルの上には、湊が淹れてくれたままのコーヒーカップ。
すでにぬるくなった中身を見つめながら、璃子はふぅと息をついた。
少しだけ鼓動が速くなる。
テーブルの上に置いていたスマートフォンを手に取り、
一度画面を消してから、もう一度見つめる。
「母」の名前。
指が震えそうになりながら、発信ボタンを押した。
数回のコールのあと、きっちりした声が電話の向こうから聞こえてくる。
「もしもし?」
「……お母さん、私、璃子」
「なによ、いまさら。篠原さんとは、どうなってるの?」
予想通りの言葉に、少しだけ喉が詰まった。
璃子は意を決して、静かに口を開く。
「……恭介さんから、お断りされました」
一瞬、間があった。
「……はぁ。まったく、あなたって子は……」
呆れたようなため息が、受話器越しに届く。
「せっかく相手はちゃんとした家柄で、音楽家としても申し分なかったのに。
どうせまた、あなたが感情的になって面倒なことを言ったんでしょう?」
「……ううん。私、ちゃんと伝えようとした。でも……それでも駄目だったの。
彼が、自分から『この同棲は無理だ』って……言ってくれたの」
再び、由紀子の沈黙。
「……まあ、篠原さんの方から断られたのなら、仕方ないわね。
向こうのご両親にも恥をかかせなくて済んだ。
……あの子なら、またいい人が現れるでしょうし」
突き放すようでいて、どこか安堵すら感じられる声音だった。
由紀子の中で「失敗」として処理されたのだろう。
璃子はその温度差に、どこか冷めた気持ちで「うん」とだけ答えた。
「それで? 今はどこにいるの? 実家には戻ってないようだけど」
「……うん。いま、金城さんのところにいる。KANEROの……」
「はあ? あの人と? ……また厄介なことになるわよ、璃子。
あの人たちとは最初から何もないって言ってたじゃない」
「気づいたの。私、音楽が嫌だったんじゃなくて、
誰の期待にも応えられない自分が怖かっただけなんだって」
「また、わけのわからないことを……」
「お母さん、もう……私は自分の足で歩きたい。
それがどんなに遅くても、遠回りでも」
由紀子は、今度は返事をしなかった。
ほんの数秒の静寂のあと、聞こえたのは、かすかに小さな、でも確かな声。
「……そう。好きにしたらいいわ。
どうせもう、母親の言うことなんて聞かないんでしょう?」
その言葉は、怒りよりも、どこか諦めにも似ていた。
「……ありがとう。連絡だけはしたかったの」
「……そう。じゃあ、お父さんには伝えておくわ」
ぷつりと通話が切れた。
璃子はスマホをそっと置き、長く息を吐いた。
そして──
カップの冷めたコーヒーを口に運びながら、心の中に、小さな決意を灯した。
母の期待ではなく、誰の型でもない、自分の音で。
これから歩き出すのだと。