世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
電話が切れた音が、静かなリビングに短く響いた。
璃子はスマートフォンをそっとテーブルに置いたまま、まだ余韻のように何かを抱えている。

黙って隣に座っていた湊が、ふと璃子の方に視線を向ける。
目が合った瞬間、彼はにこりと、何も言わずに穏やかに微笑んだ。

その笑顔に、璃子の胸がふっとゆるむ。
ずっと張り詰めていた何かが、やっと解けていくのを感じた。

母が──諦めた。
きっとそれは、璃子にとって呪縛がひとつ解かれた瞬間だった。

安堵なのか、寂しさなのか、嬉しさなのか──
すべてが混ざり合って、璃子の目にじわりと涙が滲んだ。

「……」

言葉の代わりに、璃子はおもむろに湊へ手を伸ばした。
湊は、迷うことなくその手を取り、優しく引き寄せてくれる。

自然な動きだった。
まるでずっとそこにあるもののように。

璃子は湊の胸元に顔を預けた。
鼓動が、すぐ耳の近くで静かに鳴っていた。

ああ──
ここだ、と思った。

私がいる場所は、ここなんだって。

湊の香り、ぬくもり、息づかい。
その全部が璃子を安心させ、
そっと、やわらかく守るように包み込んでいた。

──こんな場所があるなんて。

璃子の髪に頬を寄せるようにして、湊が低く囁いた。

「……もう、どこにも行かないで」

璃子は、小さく頷いた。
涙が、静かにこぼれた。
でもそれは、悲しみの涙ではなかった。
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