世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
朝比奈家のリビングには、珍しく朝比奈紀江の姿があった。
しんと静まり返る空気のなか、ソファには由紀子と聡一が、どこか気まずそうな顔で座っている。

まるでこれから言われることを、すでに予感しているかのように。

「……聞いたわよ。璃子、篠原さんとの“お試し同棲”解消したって」

紀江の言葉に、由紀子が反射的に口を開く。

「それは……あの子が……」

「それは別にいいのよ」
紀江は遮るように、ぴしゃりと言った。
「──あの子が決めたことなら」

一拍おいて、紀江は背筋を伸ばしたまま、まっすぐ2人を見据える。

「でもね、あなたたちが進めた結婚話で、璃子がどれだけ苦しんだか……わかっているの?」

由紀子の眉がわずかに動いた。

「同棲中、璃子は隙を見て、毎日のように私に電話をかけてきたのよ。
“怖い”って……“息ができない”って……泣きながら」

「そんな……あの子、そんなこと一言も……」

「──言わなかったんじゃない。あなたが、聞こうとしなかったのよ」

由紀子の顔がこわばる。
聡一は黙ったまま、視線を逸らした。

「私には、あなたたちの“璃子のため”は、決して璃子のためになっているとは思えない」

紀江は深く、静かに息を吸い込んだ。
そして──静かに、だが厳しく言った。

「自分の正しさを妄信し、人を思い通りにできるとおごり、
人の心を踏みにじることは……たとえ親であっても、許されることではありません」

由紀子は思わず口を噤む。
紀江は続ける。

「由紀子さん。あなたは、長い年月璃子をピアノに縛りつけてきた。
そして今度は、“正しい”結婚にまで」

「……」

「どれだけ親が願おうと、代わりにその人生を生きてやることはできないのよ。
そして、子供だって、親の望みを叶えるために生きているわけじゃない」

紀江の声は少し震えていた。
だが、それは怒りでも憤りでもない。
重く、深く──親としての責任と悔いを知っている者の、静かな警告だった。

「あなたの人生の主人公は、いつだってあなた自身なの。
結婚していても、子供がいても、他人の人生を背負うことなんてできない」

「子供はね、親の“自己実現”のための存在じゃありません。
──それだけは、どうか忘れないで」

言葉を失う由紀子の横で、聡一が少し身じろぎした。

紀江は視線をそらさず、今度は彼に向き直る。

「あなたもよ、聡一」

「……」

「どれだけ社会で成功しようと、たったひとりの家族すら守れなかった男が、
偉そうにテレビで“人間とは”“愛とは”なんて語ってる。──恥を知りなさい」

聡一は何も言えなかった。
だが、その言葉は確かに、胸の奥に突き刺さった。

「親にとって一番大切で、そして一番難しいことは──
子供を“信じて”見守ること。……ただ、それだけのことなのよ」

紀江の声が最後だけ、少し柔らかくなる。

沈黙が落ちる。
その場にいた誰もが、もう言葉を発することができなかった。
ただその沈黙が──璃子というひとりの女性が、自分の人生を取り戻そうとしているという
事実を、誰より重く突きつけていた。
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