世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
重苦しい沈黙の中で、由紀子がふと息を吸い、
ようやく重い口を開いた。

「……私も、型にはめられて生きてきたのよ」

声は小さく、震えていた。
まるで、自分の中に閉じ込めていた記憶を、一つずつ掘り起こすように。

「子どもの頃から、“桐原家の娘”として、
周囲の期待に応えることが当たり前で……
“音楽の才能がある”って言われて、それが私のすべてだと思ってた」

「期待されるのが嬉しかった。だから、飲み込んだの。
多少つらくても、それが“正しい”生き方だって、信じ込んできた」

ふと、視線が宙に彷徨う。

「でも……高校生のとき、将来がかかったピアノコンクールで大きなミスをして。
それからだったわ。両親は“まあ、しょうがない”って顔をしたけれど、
友達は少しずつ離れていった。私だけが取り残されたみたいだった」

「──ずっと、孤独だったの」

しんとした空間の中、時計の音だけが響く。

「私は夢を……音楽を、もっと追いかけていたかった。
でも、“あなたは女の子なんだから”って、親から言われたの」

「“そろそろ結婚を考えなさい”“家庭に入ることも大事よ”って。
──私は、あのとき、何かがぽっきり折れた」

由紀子の声に、かすかな熱がこもり始める。

「子どもが生まれて、特に璃子が生まれた頃だった。
私は、もう一度夢を見たいって、心のどこかで思い始めた」

「でも、それは私の夢。私の挫折。私の未練だったのに──
私は、麻衣にも璃子にも、その重さを押しつけてたのね……」

目を伏せて、拳をぎゅっと握る。

「今まで、“そんなはずない”って、ずっと否定してきた。
でも……紀江さん。あなたの言葉を聞いて、はじめて気づいたの」

「私……本当に、酷いことを言ったわ」

「“信頼関係を築くには、夜の気遣いも大切よ”なんて……
あれは、遠回しに“応じなさい”って言っていたのと同じだった」

紀江の眉がわずかに動いた。

「璃子は……何も言わなかった。ただ、否定もせず、泣きもせず、静かに電話を切ったの。
──信頼も何もない相手に、そんなことを……まるで“当然”のように……」

声が、詰まった。

「私は……璃子にとって、“呪いの母”だったのね……」

その言葉とともに、由紀子の目から、つっと涙が零れる。
次の瞬間、抑えていたものが崩れたように、声を上げて泣いた。

「ごめんなさい……ごめんなさい……!」

泣きじゃくる由紀子を、紀江は黙って見ていた。
その目には、苛立ちともあきれとも違う、どこか複雑な感情が浮かんでいた。

──でも、突き放さなかった。
紀江は、苦しむ人間の痛みを知っているから。

ようやく泣き止んだ由紀子が、絞り出すように言った。

「……ごめんなさい」

紀江は静かに首を振る。

「私に謝らなくていいのよ」

一拍おいて、真っ直ぐに見つめながら続ける。

「璃子に謝りなさい。……今、金城湊のところにいるんでしょう?」

由紀子が目を伏せて小さく頷くと、紀江はやわらかく、しかしはっきりと言った。

「それが──あの子の出した“答え”なのよ」
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