世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
昼時を過ぎた頃。
ピンポーン、と穏やかなインターホンの音が、家の空気をかすかに震わせた。

璃子は手にしていたマグカップを静かに置く。
茶の表面に、波紋がゆっくり広がった。

玄関に出た湊が扉を開けると、そこにはスーツ姿の聡一と、
品のあるワンピースを身にまとった由紀子が立っていた。璃子の両親だった。

「……璃子を、訪ねに来ました」

由紀子の声は、かすかに掠れていた。

リビングに通されると、璃子はソファにひとり腰をおろす。
正面には、無言のまま並んで座る両親。
創と湊はその斜め後ろ、少し距離をとって静かに座っていた。
ふたりのまなざしは、そっと璃子の背を支えているようだった。

短い沈黙のあと、先に口を開いたのは聡一だった。

「……元気そうだな」

璃子は、ほんのわずかに頷いた。それだけだった。

「都合をつけてくれて、ありがとう」

由紀子の言葉にも、璃子は何も返さず、膝の上で指先を組み、ぎゅっと握る。

「今日は、璃子に謝りたくて来ました」

その一言に、璃子の肩がわずかに揺れた。

「私は、あなたの人生を“正しさ”で塗りつぶそうとしていた。
見ようとしなかった。……母親だから許されると思っていた」

由紀子はうつむき、言葉を選ぶように続ける。

「篠原さんとのことも……あなたの気持ちを確かめもせず、話を進めた。
いま思えば、信じられないほど傲慢だった」

璃子は顔を上げないまま、ぽつりと呟いた。

「……泣くことすら、許されないと思ってた」

由紀子が小さく息を呑む。

璃子は、淡々とした口調で続ける。けれど、その言葉は冷たく、静かに深く突き刺さった。

「嫌いだったわけじゃない。……でも、ずっと、怖かった」

「傷ついても、怒っても……どうせ聞いてもらえない。
言っても、ねじ伏せられる。だったら、黙るしかないでしょ」

由紀子の目に、滲んだ涙が光る。

「璃子……本当に、ごめんなさい」

「……お母さんの夢を背負わされてるなんて、ずっと思ってなかった。
でも……ずっと、重かった。言葉にできないくらい」

聡一が、不器用な声を絞り出す。

「俺も……見てなかった。任せきりだった。
父親のくせに、何もわかってなかった」

璃子は、ようやく顔を上げた。

その目には涙はなかった。ただ、静かな怒りと、長く凍ったような痛みがあった。

「……気づいてくれたなら、それでいい」

由紀子は震える手で涙をぬぐいながら、言葉を絞る。

「……あなたの人生に、私が口を挟む権利は、もうないわ」
「……それだけは、ちゃんと覚えておく」

璃子は、ただ小さく頷いた。

ふと湊を振り返る。
彼の眼差しは変わらず、やわらかく、静かに彼女を見守っていた。

創が、そっと空気をやわらげるように言葉を添える。

「……これからが、スタートなんじゃないかな。璃子さんにとっても、ご両親にとっても」

由紀子は深く頷いた。

「……私たちも、変わっていきたいと思ってるの。
遅いかもしれないけれど……見守らせてね」

璃子は、かすかな息を吸い、確かな声で言った。

「……ありがとう」

午後の光が、静かにリビングに射し込んでいた。
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