世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
段ボールの山に囲まれて、リビングの一角はすっかり“楽譜整理本部”と化していた。

「はい、次これー。アルテミスの本選のやつ」

璃子が差し出してきたのは、分厚いファイル。
表紙にはシールで「FRANCE」と貼られ、
中にはびっしりと書き込みと付箋が詰まっていた。

湊がパラパラとめくる。

「これ……もういらないんじゃない?」

「だめっ! それ、いる!」

璃子は目を見開いて、湊を睨むように睨んだ。
ちょっとした猫パンチが飛んできそうな勢い。

「でもこれさ、当日の会場変更とかの付箋とか、俺の走り書きメモだよ?」

「それが大事なの!」

湊はため息をつきながら、苦笑するしかなかった。

「わかったよ、とっときな。殿堂入りね」

次のファイルを手に取ると、手首を痛めた時期のものだった。
湊が徹夜で調べて作った運指改善資料や、ウォーミングアップのための特製スコア、
本人すら忘れていたような、細かいケアメモまで入っていた。

「これは?」

「いるー!」

「これ、うちにある資料のコピーだよ。もう一回出せるし」

「違う違う違う! あのときの想いが詰まってるの!」

璃子は真剣な顔をしてファイルを抱きしめた。

湊は苦笑いしながら、その肩を抱き寄せる。

「……なに、抱きしめても捨てないから」

プイッと顔を背ける璃子。

「違うよ。可愛いなって。俺の出したもの、全部大事にしてくれてさ。どんだけ俺のこと好きなのかなって」

璃子はふいに涙ぐみそうになりながらも、強がって言い返した。

「大好きに決まってるじゃん……どんだけ、我慢したと……」

声が震えるのに気づいて、湊はすぐに頭をなでてやった。

「泣かない、泣かない。まだ片付け残ってるでしょ?」

璃子は鼻をすんとすすって、ごまかすようにぬいぐるみの山に目をやる。

「……で、人形。さっき棚に並べたと思ったら、なんでまたベッドに全員集合してるの?」

「え、だって。どこに置くか決めるには、出して並べてみないと!」

「……やっぱりこの子、お嬢様だな……」

湊は呆れ半分、愛しさ半分でぬいぐるみの群れを眺める。

「てか今日、俺、ぬいぐるみに囲まれて寝ることになるの?」

「私は小さい頃からずっとそうやって寝てたけど?」

「……俺は、璃子だけ抱いて寝たいけど?」

「~~っ!!」

璃子は顔を真っ赤にして「きゃーっ!」と叫び、ぬいぐるみのクッションごとベッド奥へ逃げ込んだ。

その様子を見て、湊はひとりごちた。

「……高性能な防音マンションでよかった。聡一さん、感謝します」

今日もまた、新しい生活の音が、静かに響いていた。
< 142 / 217 >

この作品をシェア

pagetop