世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
リビングのローテーブルには、譜面とタブレットが並んでいた。
画面の中では、内田先生が弾く手元の映像。
楽譜と見比べながら、指の動きに目を凝らす。

膝の上には、温かい紅茶をのせたマグカップ。
ミルクティーの湯気が、ぽうっと空中に溶けていく。

本当は、ピアノに触れた方がいい。
年明けすぐの大事なコンクール。
練習を怠る理由なんて、ない。

――でも、今日くらいはいいだろう。

ソファに沈み込んで、マグカップをもう一口。
これは、無言の反抗だ。
「ちゃんとしなさい」が口癖の母親に対する、ささやかな。

「今日くらい、さぼってやる」

誰に言うでもなく、ぽつりと呟いた。

やがて日も落ち、部屋に灯りを点ける。
そろそろ夕飯の支度でも……とキッチンに向かいながら、ふと思う。

「今日は、年越しそばか」

冷蔵庫を開けて、ふと手を止めた。
そこにあったのは、うどんの袋。

「……ま、いっか。年越しうどんでも」

肩の力が抜けて、ひとり笑う。
誰も見ていない。
誰にも叱られない。

小鍋に湯を沸かしながら、ふわっと出汁の香りが立ち上る。
年末の夜は、ゆっくりと、静かに、更けていく。
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