世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく

遅れてきた来訪者

年が明けた元日。
正月とはいえ、璃子にとっては静けさとは無縁の朝だった。
和服姿で玄関に立つ。両親は不在。
応対はすべて、璃子ひとりの仕事。

一人目の訪問者は、父・聡一の仕事関係者だった。
音楽業界の中でもやや商業寄りのプロデューサー。
「璃子さん、いつもお父さんから話は聞いてますよ」
にこやかな笑みを浮かべ、手土産を差し出す。

「ありがとうございます。どうぞお構いなく」
璃子も笑顔で応じる。
会話はそつなく、短く、形式的に。
きっと相手も、それを求めていただけだ。

二人目は、母・由紀子の音楽学校時代からの友人。
麗しいグレイヘアに、品のいい和装姿。
「まあ璃子ちゃん、すっかりお姉さんになって」
「お変わりありませんね。お会いできてうれしいです」
どこか母の面影を感じるその女性に、璃子はわずかに緊張する。

三人目は、あのクリスマスコンサートで声をかけてきた、父親の古い友人。
相変わらず、張りのある声で言った。

「璃子ちゃん、もうすぐ本番だね。期待してるよ」

その言葉に、璃子の胸の内がざらりとした。
(この人は、私の演奏に期待してるわけじゃない。ただ、“朝比奈璃子”という肩書に)

「ありがとうございます。今年こそは、フランス行きのチケットを手にできるよう、頑張ります」
そう言って、にっこりと笑った。

彼は手を叩いて喜び、
「おお、意気込み十分だ。ご両親も喜ぶなあ」
と満足げに言って、名残惜しそうに帰っていった。

午後をまわる頃には、来客もひと段落。
誰も長居はしない。玄関先で形式的な挨拶だけ交わし、皆、手短に帰っていく。

ようやく座ろうかとリビングの椅子に腰をかけた、そのときだった。

――ピンポーン。

インターフォンのチャイムが、また鳴った。
微妙な時間帯。
波を避けて来たかのような、ずらした訪問。

璃子は一瞬、ため息をついたが、気を取り直して立ち上がった。
誰だろう。もう、客人は打ち止めだと思っていたのに。
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