世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
夕食を食べ終えたあと、
璃子は静かに立ち上がり、またピアノの前に座った。
その隣には、もうすっかり彼の定位置となった無垢材の丸椅子がある。
湊も何も言わずにそこへ腰を下ろし、璃子の手元にそっと視線を落とした。
「呼吸して」
湊の低い声が、部屋に溶ける。
璃子は一度深く息を吸い、吐いた。
その流れで、背筋を伸ばし、肩の力を抜く。
鍵盤に向かって座る姿勢も、腕の重さも、ひとつひとつ意識していく。
まずは、白鍵だけを使ったレガートスケール。
ゆっくり、深く。
一音一音が、水の中に落ちる石のように、静かに響いた。
「今の良い。次、もう少し左手を重くして」
湊の声は優しくて、的確だった。
璃子はうなずき、次は一音を十秒かけて押す練習へ。
ド。
その音が、押し込むほどにゆっくりと、芯を持って鳴る。
湊が隣でその音の立ち上がりをじっと聴いていた。
次はハノン。
第一番と、第二番まで。
いつもなら指が駆け抜けるはずの場所を、極端に遅いテンポで、まるで地層を掘るように進んでいく。
最後は、ペダルを使わずに、ゆっくりとした和音の連打。
そのたび、璃子の腕から伝わる重さが、鍵盤に沈んだ。
「音に、ちゃんと体重乗ってきた」
湊が小さく呟いた。
璃子は、その言葉に少しだけ表情を緩める。
けれどまだ笑う余裕はない。
手のひらも、腕も、肩も、知らず知らずこわばっている。
──それでも。
(少しずつ……少しずつ、戻る)
湊は、リハビリには少なくとも三週間はかかると見ていた。
感覚が戻るのを焦らずに待つために、調律の仕事も大口以外は絞っている。
璃子は鍵盤から目を離さないまま、小さく息を吐いた。
彼の隣なら、きっと、また音を取り戻せる。
そう思った。
璃子は静かに立ち上がり、またピアノの前に座った。
その隣には、もうすっかり彼の定位置となった無垢材の丸椅子がある。
湊も何も言わずにそこへ腰を下ろし、璃子の手元にそっと視線を落とした。
「呼吸して」
湊の低い声が、部屋に溶ける。
璃子は一度深く息を吸い、吐いた。
その流れで、背筋を伸ばし、肩の力を抜く。
鍵盤に向かって座る姿勢も、腕の重さも、ひとつひとつ意識していく。
まずは、白鍵だけを使ったレガートスケール。
ゆっくり、深く。
一音一音が、水の中に落ちる石のように、静かに響いた。
「今の良い。次、もう少し左手を重くして」
湊の声は優しくて、的確だった。
璃子はうなずき、次は一音を十秒かけて押す練習へ。
ド。
その音が、押し込むほどにゆっくりと、芯を持って鳴る。
湊が隣でその音の立ち上がりをじっと聴いていた。
次はハノン。
第一番と、第二番まで。
いつもなら指が駆け抜けるはずの場所を、極端に遅いテンポで、まるで地層を掘るように進んでいく。
最後は、ペダルを使わずに、ゆっくりとした和音の連打。
そのたび、璃子の腕から伝わる重さが、鍵盤に沈んだ。
「音に、ちゃんと体重乗ってきた」
湊が小さく呟いた。
璃子は、その言葉に少しだけ表情を緩める。
けれどまだ笑う余裕はない。
手のひらも、腕も、肩も、知らず知らずこわばっている。
──それでも。
(少しずつ……少しずつ、戻る)
湊は、リハビリには少なくとも三週間はかかると見ていた。
感覚が戻るのを焦らずに待つために、調律の仕事も大口以外は絞っている。
璃子は鍵盤から目を離さないまま、小さく息を吐いた。
彼の隣なら、きっと、また音を取り戻せる。
そう思った。