世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
木曜日の午前。
璃子は、久しぶりに内田先生の教室を訪れていた。

もう、先生の方から家に来てもらうのはやめた。
自分の足で、音楽の場所に通うことにした。

小さなサロン風の部屋。
古いけれど手入れの行き届いたグランドピアノが、今日も変わらずそこにあった。

「さあ、やってみましょう」
優しくて、でも決して甘やかさない声。

璃子は、鍵盤の前に座り、ゆっくりと息を整える。
何百回も弾いたスケール。
でも、今日の一音は、今までとまるで違って感じられた。

「……あれ……指が……」
指がもつれる。腕が浮く。肩に力が入る。

「璃子さん、左肩、もう少し下げて。ほら、肘から重さを預けて」

音は、出る。
けれど、出すたびに胸がきゅうっと痛む。
置き去りにしていた感覚が、ひとつひとつ帰ってくる。

「音が、自分と、距離があるんです」
かすれる声で言ったあと、思わず、瞳が潤んだ。

内田は、何も言わずにそばに立ち、肩にそっと手を添える。
その手の温かさに、また涙がこぼれそうになる。

「少しずつでいいの。璃子さんは、ちゃんと戻ってきてる」

指導は、1時間半にわたって続いた。
最後は、簡単なモーツァルトのフレーズを、あえて歌うように弾く練習。

……終わったときには、心も体も、ほんの少し軽くなっていた。

練習が終わり、教室のカーテン越しに光が差す中。
璃子は、ピアノの蓋を静かに閉じて、ぽつりと漏らした。

「湊の前では、少しだけ……頑張っちゃうんです。無理ってほどじゃないけど」

内田は、穏やかに笑った。

「きっと、それも全部伝えたら彼、喜ぶんじゃないかな」

「え……?」

「璃子さんが、“全部を見せてもいい”って思ってる相手なんでしょう?
だったら、甘えることも、弱音も、ぜんぶ見せてあげた方がいい」

「……ちゃんと受け止めてくれると思いますか?」

「ええ。あなたたちは、もう一度音を信じることができたんだから。
大変な時を一緒に乗り越えてきたのよ。
大丈夫よ」

璃子は、ゆっくりと小さくうなずいた。
その目には、今度は迷いではなく、かすかな光が宿っていた。
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