世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
昼も回り、KANEROの社内が少しずつざわつきを増してきた頃。

璃子は、静かな音楽スタジオの中にいた。
音響と調律に最適化されたその部屋には、研ぎ澄まされた空気が満ちている。

この場所は、完成したピアノの音を職人が確認したり、音の研究をするための、特別な空間。
本来、演奏家が立ち入る場所ではない。

けれど、今日は例外だった。

「外で弾く機会があれば、自信にもなるだろう」
そう言ってくれたのは、湊の父・金城創だった。

璃子の前には、KANEROの新作モデルのグランドピアノ。
つい先ほど調律を終えたばかりの、清冽な黒。

その横には、いつの間にか“璃子専用”になった小さな丸椅子があり、湊がそこに腰かけていた。

「好きな曲、好きなように弾いてごらん」

小さな声で、湊が囁く。

璃子は深く息を吸い、鍵盤にそっと指を置いた。

……音が鳴る。

最初は、おずおずと。ぎこちなく。

けれど、その音に耳を傾ける職人たちは、誰一人として眉をひそめることはなかった。
むしろ、リズムに合わせて、自然と肩を揺らしている。

その様子に、璃子の胸がじんわりと温かくなった。

(……ああ、まだ……大丈夫なんだ)

私の音でも、誰かの心を、ちょっとだけでも和らげることができる。
その実感が、失いかけていた「音への信頼」を少しずつ呼び戻す。

――だけど、ふと気を抜くと、フォームが崩れる。
肩が上がり、手首が浮きかけたとき。

湊の手が、そっと璃子の腕に添えられた。
何も言わず、ただ優しく、正しい位置に導いてくれる。

璃子は、わずかに笑う。
「ありがとう」とは言わない。言わなくても、伝わるから。

職人たちの後方、少し離れた位置で、創もその様子をじっと見つめていた。
腕を組み、黙って頷く。

その目は、「音」と「人」を見極める熟練者の目だった。

璃子の音が、KANEROの空気の中で、静かに、確かに息づきはじめていた。
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