世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
革張りの椅子と木目の美しいテーブル。
大きな窓から午後の柔らかな陽が差し込んでいる。
クラシック音楽が小さく流れる静かな空間。

湊は、来客用のカップにコーヒーを注ぎながら言う。

「わざわざ、こちらまでありがとうございます。矢代さんにKANEROの社屋をご案内するなんて、ちょっと緊張しますね」

矢代は苦笑する。

「いや、こっちこそ久しぶりだよ。君がまだ学生の頃、調律室でピアノを解体してた姿が思い出される」

湊は照れくさそうに笑いながら、カップを手渡した。

「……あの頃から、まさかこんなふうに再会するとは思っていませんでした。璃子さんのことで、ご挨拶をと思ってました」

矢代は一口、コーヒーを口に含んでから、ゆっくりと湊の目を見る。

「こちらこそ。璃子さんのマネジメントを任された、矢代正輝です。湊くんが、彼女にとってどれだけ大きな存在か……聡一さんからだけでなく、璃子さん自身からも、十分伝わってきてるよ」

湊は一瞬だけ表情を緩め、しかしすぐに真面目な顔に戻る。

「……彼女は、あまり自分を守るのがうまくない。音に誠実なぶん、時々、周囲の声に押しつぶされそうになる。それを近くで見てきました」

矢代は静かに頷く。

「分かるよ。俺もステージから降りたあと、何人も潰れていくのを見てきた。本人の技術や努力じゃどうにもならない“声”が、表舞台には溢れてる」

「だからこそ、俺が担当する意味があると思ってる。あの子が、音楽に“戻る”ために――守るのは音じゃなく、心のほうなんだ」

湊は少し驚いたように、しかしその言葉を噛みしめるように目を伏せた。

「……璃子さんに関わる大人で、そう言ってくれる人がいてくれて、本当に良かったです」

矢代は、軽く笑った。

「いや、俺はマネージャーって名目の、壁だよ。取材陣や業界の雑音が来たら、一番最初にぶつかる役」

「湊くんは……彼女にとって、どんな存在になるつもりだい?」

唐突な問いだった。

湊はしばらく沈黙したまま、テーブルの木目を指でなぞっていたが、やがてゆっくりと答える。

「……何かになろう、と思ったことはないんです。ただ、できるだけそばにいて、弾けなくなるほど追い詰められないようにしたい。それが“好きな人”にできることじゃないかと、思ってます」

矢代は、その言葉に少し驚き、そして納得したように目を細める。

「それなら安心だ。あの子は、“自分のために誰かがいてくれる”って感覚が、いちばん欠けてたと思うから」

湊が小さく笑う。

「でも、俺は聞きたいですよ。矢代さんが璃子さんのためにどう動いてくれるのか」

矢代は真顔に戻り、はっきりと答えた。

「ステージに戻るその日まで、マスコミからも事務所の都合からも、家族の呪縛からも、俺が全部一歩前に出て止めるよ。璃子さんが自分のテンポで、音楽を取り戻すことだけに集中できるように」

「――そして、そのあとに彼女が笑ってるかどうかは、湊くん次第だと思う」

ふたりは言葉なくカップを持ち上げ、静かに向かい合った。

午後の陽が、グランドピアノのフレームを金色に照らしていた。
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