世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
重厚なドアの奥、磨かれた無垢材のフローリングと静謐な空気が広がる社長室。

壁際には歴代の名器がショーケースに収められ、窓からは中庭の手入れされた庭園が見える。

KANERO社長・金城 創が、深い青のスーツに身を包み、笑みを浮かべて矢代を迎える。

「矢代さん、お忙しい中、ようこそお越しくださいました。お名前は以前から聡一さんを通じて伺っていましたよ」

矢代は軽く会釈し、握手を交わす。

「こちらこそ、ずっと一度ご挨拶したかったんです。創さんのことは、湊くんから何度も聞いていましたから」

「……あの子の“育ての職人”のようなものですからね。最近は璃子さんのことで、特にお世話になっているようで」

創は穏やかに笑いながらも、その瞳の奥に鋭い観察眼を光らせている。

「璃子さん……非常に繊細な手の持ち主ですね。私も、あのコンクールの演奏映像を何度か観ましたが、あの響きは“ただの技術”では出せない。あれは、魂が鳴らしている音です」

矢代は少し驚いたように目を細める。

「そこまで聴いていただける方がいて、嬉しいです。彼女にとって音楽は、“才能”である以上に“呪縛”でもあった。私の役目は、その境目をゆっくりほぐすことだと思っています」

創はゆっくりと椅子に腰を下ろし、指を組む。

「ご存じかと思いますが……璃子さんと湊の関係は、簡単に割り切れるものではありません。息子は、感情をあまり表に出さないが……あの子が、本気で誰かを想って動いたのは初めてです」

矢代は頷く。

「だからこそ、私も責任を持ちます。芸術家にとって“誰と歩くか”は、“どんな音を紡げるか”に直結する。璃子さんが潰れないように、そして無理なく復帰の道を進めるように、全力を尽くします」

創は少し表情を緩めた。

「湊が、璃子さんと出会って変わったのなら――それは、我々にとっても希望です。KANEROの音は、人の手で育てるものですから」

一瞬の静寂のあと、創が言う。

「矢代さん。もし今後、璃子さんの演奏に、我が社のピアノを使ってもらえることがあれば……それは光栄です。最高の調律とともに、我々の音を届けたい」

矢代は少し笑って言った。

「そのときが来たら……きっと、彼女自身の手で選びますよ。誰に言われたわけでもなく、自分の意志で」

創は深く頷き、湊の姿を思い浮かべるように、遠くを見つめた。

「――ならば、我々はその選択に恥じないピアノを作り続けるだけですね」
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