世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
防音ガラスに囲まれた、木目調の温かい空間。
璃子は、矢代とともに、鳳鳴幼稚園の工場見学で披露する予定の曲目の流れを確認していた。

「最初は簡単な解説。ピアノの部品の紹介映像に合わせて、童謡のメドレーで雰囲気を和らげる。…それから子どもたちの“クイズコーナー”、最後に好きな曲のリクエストコーナー。想定では30分程度の流れです」

矢代が資料を見ながら説明すると、璃子は頷きながらペダルを軽く踏み、鍵盤に指を置いた。

「大丈夫。負担は少ないし、何より楽しみだから」

その表情は、少し前の彼女にはなかった自然なやわらかさを帯びている。

そのタイミングで、ドアが開く。

「お疲れ様」

湊がスタジオに入ってきた。手には、璃子が好きなハーブティーの入った保温ボトルを持って。

「今ちょうど、演奏の確認してたところです」

と矢代が言い、3人は軽く談笑する。

璃子は、スタジオに設置されたグランドピアノに向かって、子どもたちに聴かせる予定の童謡メドレーを弾き始めた。
「チューリップ」「こいのぼり」「かえるの合唱」――リズムは軽やかで、音色には遊び心がある。

しかし、5分ほど継続して演奏が続いたころ。

ふと、右手の手首に鋭い引きつるような痛みが走った。
あっ、と思った瞬間には、すでに音が乱れていた。
跳ねるはずの音がもたつき、重なった和音が一拍遅れる。

そのわずかな乱れに――

会話をしていた湊と矢代の動きが、ぴたりと止まった。

そして、まるで事前に打ち合わせをしていたかのように、
ふたりの視線が、同時に璃子の右手に注がれる。

璃子は焦る。

気づかれたくなかった。
もう「弾ける」と思わせたかった。
何より、あの幼稚園で、笑顔でピアノを弾きたい――その気持ちだけで走ってきた3週間。

でも、見逃されるわけがない。

璃子は鍵盤の上で手を止め、そっと拳を握り締める。

湊が一歩、彼女の横に立ち、

「……痛い?」

と、低く優しく訊ねる。

璃子は、数秒の沈黙ののち、小さく首を振る。

「大丈夫。少し、長く弾きすぎただけ」

しかし、その声はかすかに震えていた。

矢代は口を開かず、黙って背後で立っている。彼の表情は読めないが、視線は鋭く、冷静だった。

湊がそっと、璃子の右手を取り、指先から手首までを確認する。

「……炎症まではいってない。でも、これ以上やると無理がくる」

彼は璃子を見て、断言する。

「今日は、もう休もう」

璃子は、うつむいたまま、小さく「……うん」と返事をした。
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