世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
璃子がピアノの蓋をそっと閉じた。
痛みは、引きつつあった。けれど、それより胸の奥のやるせなさの方が重かった。

「ごめん……私……」

その声に、矢代が静かに手帳を開いた。
すでにペンが走り出している。

「BGMは事前収録にしましょう」
端的な一言だった。

璃子が顔を上げると、彼は手帳から目を離さず続けた。

「今日の演奏をベースにして、編集でつなぐ。リクエストコーナーは……あらかじめ幼稚園に依頼して、園児の中で“好きな曲”を事前に三つに絞ってもらう。予想外の無茶振りを防げますし、時間配分もしやすくなります」

湊が少し驚いたように、矢代を見た。

「それ……すごく的確ですね」

矢代は顔を上げて、微かに口元を緩めた。

「彼女が当日、安心して鍵盤に向かえるように。それだけです」

湊はその言葉に、深く頷く。
璃子の痛みに、反射的に感情的になる自分とは違う。
冷静に、でも一切妥協せずに「守る」矢代の姿に、自然と敬意が湧いていた。

だが、矢代はそこで終わらなかった。璃子の方へ、歩みを進める。

「……璃子さん、あなたが“子どもたちと向き合いたい”って言ったこと、覚えてます」
「それを軸に、どう形にするか考えるのが、僕の仕事です」

璃子は息を飲んだ。

「“無理をさせない”っていうのは、決して“あなたを外す”って意味じゃない。むしろ、あなただからこそ、最高の形で届けたい。そう考えてください」

璃子の目に、光が戻っていく。

湊がぽつりと笑った。

「……なんか、俺の出番ないな」

矢代が静かに言う。

「あなたの存在が、彼女の心のリハビリです。そこは、誰にもできない」

湊が、すこし照れたように目を逸らす。

璃子は、少しだけ笑って言った。

「……じゃあ私、録音用にちょっと練習しないと。短めに、でも、ちゃんと心を込めて弾けるように」

矢代と湊は、顔を見合わせて、頷いた。
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