世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
玄関のドアを閉めた瞬間、璃子はつい声を上げた。

「さむーいっ……!」

言いながら、コートも脱がずにそのまま湊の背中にぴたりと抱きつく。

「……おいおい、脱いでからにしなさいって」
湊が苦笑しながらも、拒む素振りひとつ見せず、彼女の腕にそっと手を添えた。

「やだ。いま、あったまりたいの」

璃子の頬が湊の背中にくっついて、もごもごと甘えた声で言う。
湊はその様子にふっと笑った。

「甘え方がどんどん上手くなってる気がするんだけど」

「湊のせいでしょ」

「俺のせい?」
湊はくるりと向き直って、璃子の頬に手を添えた。
そして、少しだけ前かがみになって、額をこつんと重ねる。

「……はいはい、じゃあ責任取って、ちゃんと温めます」

璃子がくすっと笑ったその瞬間、湊はふわりと彼女を包み込んだ。

優しい熱が、まるで分厚い毛布のように身体を覆ってくる。

「お疲れさま。よく頑張ったね、璃子」

その声が、心の奥まで染み込んでいく。

「……ねぇ湊」
璃子は小さな声でささやいた。

「こうしてると、全部どうでもよくなっちゃう」

「“どうでもいい”じゃなくて、“どうにでもなる”でしょ」
湊は耳元で、低く囁くように言う。

「璃子がやりたいように、俺がどうにかするから」

璃子は、笑って、そして目を閉じた。

湊の腕の中は、世界でいちばん安心できる場所だった。
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