世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく

ただいまの音

朝から、空気はどこか華やいでいた。
KANEROの工場入口には、小さな手がいくつも並び、次々と「おはようございます!」と元気な声が響く。

「みんな、今日はKANERO───ピアノを作る工場にようこそ!」

湊が膝を折って園児たちに話しかけると、子どもたちの目がぱっと輝く。

璃子は、その少し後ろで立っていた。
今日は控えめなベージュのワンピースに、胸元にはうさぎの小さなブローチ。園の先生から「子どもたちが喜びますよ」と言われて選んだものだった。

「ほら、あの人が今日ピアノ弾いてくれる“りこおねえさん”よ〜!」

保育士がそう紹介すると、子どもたちの数人が「テレビで見た!」と騒ぎ出す。

璃子はそっと笑い、軽く会釈した。
緊張は、不思議とほとんどなかった。
なによりも、この子たちの無邪気な目が、彼女の心をほどいてくれていた。

「ではまず、工場見学クイズのはじまり〜!」

明るく声を張ったのは、KANERO広報部の若手社員・坂本美優。
爽やかで、どこか司会慣れした雰囲気。
璃子も控えめに笑いながらピアノの前へ。
録音されたBGMを流しつつ、時折、短くリアル演奏を挟む。
その手首には無理のない範囲で、でも確かな音が宿っていた。

「これは何でしょうク〜イズ!」

湊が手に持ったピアノの“ハンマー”を見せると、園児のひとりが「おにぎり握るやつ!」と元気に言い、職人たちが笑いをこらえる。

璃子も思わず吹き出した。

そして──イベントの終盤。
子どもたちのリクエストで、事前に選ばれていた「となりのトトロ」「ミッキーマウスマーチ」「にじ」の3曲を、短くアレンジしたメドレー。

「最後に少しだけ、生で演奏しますね。歌ってもいいからね」

璃子が弾き始めると、会場の空気が少しだけ変わる。
音が、優しい。
華やかでも、堂々とでもなく、まるで“話しかけるように”紡がれていく旋律だった。

ぽつぽつと、子どもたちが歌い出す。
先生たちも微笑んで手を叩く。

そして演奏が終わる頃──

「りこおねえさん、またきてくれる?」

小さな声が、前の方から届いた。

璃子は驚いたように目を見開き、それから、優しく頷いた。

「うん。また来るよ」

その瞬間、後方で矢代がふと目を細めた。
湊も、璃子の方を見て、ただ一言。

「……おかえり」

璃子は、ふっと肩の力を抜いて、ピアノの蓋に手を添えた。
< 168 / 217 >

この作品をシェア

pagetop