世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
工場見学が無事に終わった後、璃子と湊、矢代は社内の会議室を控室として借り、ささやかな昼食をとっていた。
テーブルの上には、会社が手配した折詰弁当が三つ並び、湊は味噌カツを頬張りながら、どこか安心した顔で璃子を見ていた。

「……本当に、よく頑張ったね」

そう言って、湊は箸を置き、璃子のほっぺに人差し指を軽く当てる。
つん、としただけなのに、璃子はびくっと肩を揺らした。

「……なにそれ、子ども扱い?」

「ん? 子ども扱いじゃなくて、ごほうびタッチ」

「全然嬉しくないんだけど……」

璃子はぷいと顔を背けたが、口元には小さく笑みが浮かんでいる。
湊はふふっと笑って、お茶をすする。

その様子を向かいから見ていた矢代は、静かに箸を進めながらも、どこか楽しげだった。
普段は冷静沈着な彼も、今日ばかりは表情が柔らかい。

「……あんなに子どもたちの前で自然に話せるとは思いませんでした。テレビの時より、ずっといい顔でしたね」

「テレビは……油断できないから緊張してただけ」

璃子が照れくさそうに言うと、湊が間髪入れずに入る。

「今日の“となりのトトロ”、俺は一生分癒された気がする」

「湊さん、それは言い過ぎ」

「いや、マジで。今夜もう一回弾いて?」

「子ども向けなんだけど、あれ」

「大人が聴いちゃダメって決まりはないでしょ」

くだらないやり取りに、矢代はつい口元を覆って笑う。

「……おふたりとも、昼休みの社員食堂かってくらい、自然に話されますね」

「ね? 僕、馴染み力は高いんです」

湊のさらりとした自画自賛に、璃子は思わず吹き出した。

笑いながら、お茶の紙コップをそっと持ち上げる。

ひとときの、平穏な昼食。
湊の「おかえり」が、まだ体の奥で響いているような気がしていた。
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