世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
お弁当を食べ終えて、紙コップに残ったお茶を飲み干したころ。
璃子のスマートフォンが、控えめなバイブ音を鳴らした。

画面に浮かんだ名前を見て、璃子は特に身構えることなく、自然に通話ボタンを押す。

「もしもし、璃子です」

『テレビ、見たわよ。……雑誌も。ちゃんと受け答えしてて、よく頑張ってるわね』

由紀子の声は思ったより柔らかかった。
テレビ出演のあとは、また何か言われるかと多少構えていた璃子だったが、そのトーンに少しだけ胸を撫でおろす。

「うん、ありがとう。ちょっと難しいことも聞かれたけど……大丈夫だった」

『ちょっと言いにくいこと、聞かれたんじゃない? ほら、ピアノのこととか』

「うん。でも、矢代さんがすぐ動いてくれたから」

『矢代さんって……あの、マネージャーさんよね? お父さんから名前は聞いてるわ』

璃子は思わず口元に笑みを浮かべた。

「そう。頼りになるの。いつも落ち着いてて、ちゃんと私のこと考えてくれてる」

電話の向こうで、小さく息をつく音がした。
それが安堵なのか、気を抜いた音なのかまでは分からなかったが、由紀子の次の言葉には、いつもの鋭さはなかった。

『……そう。なら、よかったわ。』

そのとき、向かいに座っていた矢代と湊が、ふと璃子の様子を見て、目配せを交わす。
湊は小さく肩をすくめ、矢代は静かに笑う。

璃子はふとその視線に気づいて、声を潜めて電話を続けた。

「……今日は、子どもたちの工場見学も無事に終わったよ。私、ちょっとずつ慣れてきたかも」

『……あら、それなら、もっとたくさん露出してもいいかもしれないわね』

「……それはまた今度、矢代さんと相談して決めるね」

ほんの少し言い返せたことが、璃子には自分でも驚きだった。
電話を終えた璃子は、スマホをそっと机の端に置いた。

「……なんか、ちゃんと話せたかも」

「そりゃ良かった」と湊が呟くと、矢代は淡々と一言だけ返す。

「それも含めて“リハビリ”ですから」

璃子はその言葉に一瞬だけ目を丸くしてから、ふっと笑った。
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