世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
「では、今日はこれで璃子さんのスケジュールはすべて完了です」
控室の机の上をさっと整えながら、矢代が手帳を閉じる。

「ご自宅まで、お送りしましょうか?」

璃子が小さく首を傾げ、隣の湊へ視線をやる。
湊はすぐに璃子の目を見て、柔らかく答えた。

「僕も今日はこれで終わりなので、一緒に帰ります」

矢代はほんのり目を細めてうなずく。

「わかりました。お気をつけて」

書類の入ったバッグを肩にかけると、矢代は静かに部屋を後にした。

ドアが閉まる音がして数秒。
璃子はぱっと顔をほころばせ、湊の胸にすっと身を寄せた。

「……ずっと我慢してた?」
湊が耳元で囁くように笑う。

「うん。……矢代さん早く帰ってって思っちゃった」
璃子がくすっと笑って小さく頷くと、湊はその背に軽く両腕を回して、優しく抱きしめ返す。

「……一応、ここガラス張りだから気にして。幼稚園児はもういないけどさ」

璃子は小さく吹き出しながら、湊の胸元をぽんっと軽く叩く。

「そういうの、先に言ってよ」

「いや、先に言ったら抱きついてこなかったでしょ」

湊の茶目っ気ある声に、璃子はさらに表情を緩めた。
ほんの少しだけ、寄りかかる力を強める。

「……あの童謡メドレーのとき、気づいてたよね」

「うん。でも矢代さんがうまく動いてくれて助かった」
湊は璃子の手をそっと取ると、親指で手の甲をなぞった。

「ピアニストは手をいたわってください。職人からのお願い」

璃子は小さく息をついて、湊の手のぬくもりを受け取ったまま、そっとうなずいた。

そのあと二人はKANEROの職人たちに軽く挨拶をして、社屋を後にした。

静かな夕方。
いつもの道も、少しだけやわらかく見えた。
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