世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
バスルームから戻った璃子は、髪をタオルでくるんだまま、ふとリビングの棚を開いた。

そこに眠っていたのは、去年のクリスマスコンサートで使ったメドレーの楽譜。

柔らかい照明の下で、それを見つめていた彼女の横顔は、どこか遠くを見ているようだった。

湊はキッチンからカップを片手に戻ってくると、その様子に気づき、そっと隣に腰を下ろした。

「……クリスマスコンサート、今年もやりたいな」

璃子は、楽譜を見つめたまま呟く。

湊は、少しだけ微笑んでうなずいた。

「いいんじゃない? あのホテルのラウンジのやつでしょ」

璃子は小さく頷いてから、口を噛みしめたような表情になった。

「……うん。でも、私の名前出したら、また報道とか来ちゃうかもしれないし……ホテルに迷惑かけたらって思うと、怖いな」

その声に、湊は一瞬だけ何かを思案するように視線を落としたが、すぐに柔らかく答えた。

「……矢代さんに相談してみたら? 何かいいアイディア出してくれそうだよ。きっと璃子のやりたい気持ち、わかってくれる」

そう言いながら、湊はそっと璃子の手から楽譜を取って、机の上にそっと置いた。

「でも――今日は、もう頑張るの終わり」

璃子がぽかんとして見つめる中、湊は優しく、けれどどこか甘えるように微笑んで、璃子の頭をぽん、と撫でる。

「いっぱい甘やかしたい」

その手は、お風呂上がりの彼女の髪にふわりと触れながら、まるで熱を持っているような感触だった。

「ね、こっち来て」

そう言って、湊はソファのクッションをぽんぽんと叩いた。

璃子が戸惑いながらそこに座ると、湊はまるで膝に猫を抱くように、彼女の身体を抱き寄せた。

「……あったかい」
璃子がぽそりと漏らすと、湊は小さく笑う。

「それは俺の台詞」

湊の腕は彼女を包み込むように背中を撫で、指先は時折、肩や腕をくすぐるように優しくたどる。

「今日の璃子、すっごくかっこよかった。俺の知らない璃子も、また少し見れた」

「……見られてた?」

「うん。惚れ直した」

耳元でささやかれて、璃子はくすぐったそうに身をよじる。

「……ほんと甘やかしすぎ」

「足りないくらいだよ」

湊はそう言って、額を彼女のこめかみに寄せた。

触れそうで触れない距離に、空気の温度まで甘くなる。

「ね、璃子。これからの“やりたいこと”、どんどん言って。俺が、ちゃんと隣にいるから」

璃子は湊の胸に顔をうずめた。

その鼓動は、何よりも安心できるリズムだった。
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