世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
SOUND ORBITの会議室。

ガラス越しに午後の陽が射し込む中、璃子は矢代の向かいに腰を下ろしていた。矢代の前には、タブレットと手帳。それは彼の「戦略会議モード」のサインだった。

「……クリスマスコンサートの件ですが、璃子さんのお名前を出して告知するのは、やはり現実的ではありません」

矢代はそう切り出すと、淡々とした口調で続ける。

「現在の露出状況を考えると、前面に出た瞬間に報道各社が一斉に動く可能性が高い。そうなれば、当日の進行や安全面にも支障が出かねません」

璃子は少し頷いた。

「じゃあ……やっぱり、シークレットゲストとして?」

「はい。それが最も現実的で、かつ演出的にも成立します。アンコールはナシ。曲目も事前告知せず、完全に“サプライズ演出”として組み込みます」

「……なるほど。クリスマス限定なら、それもアリですね」

「ホテル側とも話を進めています。ただ、こちらが詳細を伝える範囲は最小限に抑えます。ゲストの情報は支配人にのみ伝達。スタッフへの共有は“未定の特別演出”という枠組みに留めます」

璃子はふと、記憶をたどる。

「あそこの支配人……確か父の古い友人だった気がします。大石さん、という名前でしたよね?」

矢代は静かに首を横に振った。

「その方は昨年までの支配人、大石政信氏です。実はプライベートで女性問題を起こし、今年の春に身を引いています。現在は別の方が継いでおり、そちらとのコンタクトが必要です」

「……そうなんですか。お詳しいんですね」

「周辺人物がどれだけ信頼に足るか。それはプロジェクトを進める上での基本的な情報収集ですから」

「……ということは、その新しい支配人が信用できる人である、という前提で話を進めるってことですね?」

「はい。その判断がつけば、最終調整に入ります。できるだけ早急に動きますが、相手の確認状況によっては、決定が本番直前になる可能性もあります」

璃子は小さく息を吸って、しっかりと矢代を見つめた。

「もちろん、構いません。……私のわがままに、付き合ってくださりありがとうございます」

矢代は、いつものように表情を崩さぬまま、ごくわずかに微笑んだ。

「いえ。璃子さんが“舞台に立ちたい”という気持ちを、可能な限り形にする。それも私の仕事の一部ですから」

その言葉に、璃子の胸が少しあたたかくなる。

信頼できる人がそばにいる。
それは、ステージに立つ勇気と、同じくらいの価値があった。
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