世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
都心の静謐と格式を兼ね備えた、音楽家のためのホテル

「Hotel Ensemble(ホテル・アンサンブル)」

都心とは思えないほど静かな佇まいを見せるそのホテルは、重厚な石造りのエントランスと、ピアノホールに通じる大階段が特徴的だった。

クラシック音楽家たちがしばしばリハーサルやコンサート、滞在の場として利用する名門ホテル。

地下には300席規模のピアノ専用ホール「ホール・アンダンテ」を擁し、その音響は世界の名だたる演奏家からも高く評価されている。

璃子と矢代は、ホテルの応接室に通された。
しんとした空気の中、室内の高級感ある調度が静かに存在感を放っている。

やや遅れてノック音が響き、ドアが開く。

「失礼いたします」

静かな声と共に現れたのは、黒のスーツに身を包んだ、端正で凛とした男性だった。

──その瞬間、璃子の動きが止まる。

足先が絨毯に吸い込まれたまま、一歩も動けなくなった。

「……あれ?」

まるで時間が巻き戻されたかのような既視感。

目の前に立っていたのは──

「篠原恭介……さん?」

数秒遅れて、璃子の声が漏れた。

母がすすめた政略結婚の“お試し同棲”の相手。
淡々としていたが、決して無礼ではなく、彼女にとっては“息苦しい空気”そのものだった。

「……朝比奈さん」

篠原も、驚きを隠さずに応じた。
その声にはわずかな動揺が混ざっていたが、すぐにプロの顔に戻る。

「本日はようこそ。ホテル・アンサンブル、文化企画室室長の篠原と申します」

矢代は落ち着いた様子で立ち上がり、軽く会釈を返す。

「SOUND ORBITの矢代と申します。本日はお時間をいただきありがとうございます」

篠原は矢代に視線を移し、僅かに目を細めた。

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