世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
「お名前は以前より存じ上げておりますが……まさか、朝比奈璃子さんの担当とは存じませんでした」

矢代は静かに頷きながら、ちらりと璃子を見やる。

「私からは……お名前をお伝えしておりませんでした。彼女の緊張を考慮しまして」

璃子は矢代の意図を察し、小さく頭を下げた。
動揺しないふりをしようとしても、少しだけ手が震えているのを自分でもわかっていた。

篠原もまた、一瞬だけ視線を泳がせたが、すぐに切り替える。

「では……本題に入りましょう。クリスマスの特別企画として、ピアノ演奏を──というご相談でよろしかったですね?」

「はい。あくまで“シークレットゲスト”としての出演です。ホテルとしても、演出の一環という位置づけでご理解いただきたい」

「アンコールや曲目告知は?」

「ありません。演出・安全・報道対応を踏まえた上での構成です。ホテル側で知っておくべき情報は最小限とし、ご対応いただくのは支配人──つまり篠原様のみにお願いしたく」

篠原は、ほんの一瞬だけ璃子を見た。
璃子はまっすぐに目を返した。その視線には、迷いも哀れみもなかった。

「……承知しました。当方としても、出演者や演出内容の詳細を他スタッフに開示するつもりはありません。演奏者が朝比奈璃子さんであることも、私の胸の内に留めます」

璃子は、胸の奥がきゅっと締め付けられる感覚を覚えた。
目の前の篠原は、まるで何事もなかったかのように振る舞っていたが、その完璧さこそが、彼の変わらなさを物語っていた。

矢代が会釈する。

「ありがとうございます。彼女にとって、この演奏はただのイベントではありません。自らの意思でステージに立つ、その初めての一歩です」

「……ならばなおさら、支援する価値があると考えます」

篠原の声に、わずかに温度が宿った。

「当日、お待ちしております。演奏の成功を心より祈っております」

「……ありがとうございます」

そう答えた璃子の声には、強さがあった。

別れ際、璃子は一度だけ篠原に微笑みかけた。
まるで、“今の私をちゃんと見て”と言うかのように。

篠原は応えるように軽く会釈を返したが──その視線には、彼にしては珍しく複雑な感情が混ざっていた。
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