世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
夕方の光が街に溶けかける頃、璃子と矢代は事務所に戻ってきていた。
このあとは内田先生のレッスンが控えており、自宅には戻らず、そのまま近くのスタジオへ向かう予定だ。

「……何か、変な夢でも見てたみたいです」

ソファに腰を下ろした璃子が、手にした温かい紅茶をそっと見つめながら言った。
向かいに座った矢代は、相づちも打たず、ただ静かに聞いていた。

「まさか、篠原さんがあのホテルの支配人になってるなんて……」

璃子はカップを置いて、軽く手を握りしめる。

「家も借りて、家具も揃えて、母が“決めた”相手と暮らして。
それで何かが変わるかもしれないって……ちょっとだけ、思ってたんです。あの頃」

言葉が慎重に選ばれていた。自分を責めるのでも、彼を否定するのでもない。

「でも、無理だった。
あの人、別にひどい人じゃないんです。
礼儀正しいし、優しい言い方をするし、生活もきちんとしてる。……でも、常に“枠”の中で動く人なんです。
私が予定外のことをすると、明らかに困る顔をしてた。
料理が少し失敗しただけでも、“次は気をつけようか”って、表情ひとつ変えずに言ってくる」

矢代は、その言葉にわずかに視線を伏せた。璃子が篠原と同棲していた時期、彼女はまだ事務所と契約しておらず、音楽活動自体を半ば諦めていた頃だった。

「湊さんと出会って……初めて、“自分のままで笑っていい”って思えたんです。
今日、久しぶりに篠原さんと会って……やっぱり戻れないな、って、はっきりわかりました」

璃子の言葉は穏やかだったが、その中に強い確信があった。

「彼が悪いわけじゃない。私のこと、ちゃんと理解しようとしてくれてたと思う。
でも……努力して“理解しようとする”時点で、もう違うんですよね。
湊さんみたいに、言葉にしなくても“伝わってしまう”人とは、やっぱり違う」

矢代は、ようやく口を開いた。

「……私も正直、あの方がホテル側の責任者だと知ったときは、驚きました。
けれど、今の璃子さんなら──冷静に対応できると信じていました」

璃子は、少しだけ微笑んだ。

「……冷静に見えてました? 内心めちゃくちゃでしたけど」

「ええ、見事に演じきっていたと思います。プロとして、十分に」

その言葉に、璃子は照れくさそうに肩をすくめる。

「矢代さん、ありがとうございます。
今日、いちばん動揺してたの、多分矢代さんじゃないですか?」

「……否定はしません」

ふたりは顔を見合わせて、小さく笑った。

「とにかく、今日のことはひとつの“確認”でした。
過去を整理して、今を見つめ直せたって感じ。
……こんな機会、なかなかないですから」

「レッスン前に、感情が整ってよかったです」

矢代が時計を見やって立ち上がる。

「では、内田先生のもとへ。送りますよ」

璃子も立ち上がり、コートを手に取った。

「はい、お願いします」

過去を過去のまま置いていける自分を、璃子はほんの少しだけ、誇らしく感じていた。
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