世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
窓の外には、冬の夕暮れが広がっていた。
冷たい空気の中、室内だけは変わらぬ温もりに包まれている。

「おかえりなさい、璃子さん」

内田先生はいつもの優しい口調で出迎えてくれた。
グランドピアノの蓋はすでに開かれ、譜面台には何も置かれていない。今日は内容から決めていくつもりなのだろう。

「手首の具合は?」

「うん……もう、だいぶいいです。完全に治ったとは言えないけど、普段の練習は問題なくできるくらいにはなりました」

「そう。なら、今日は全体の動きを見るつもりでいきましょうか。痛みが出たら、すぐに止めてくださいね」

「はい」

璃子はピアノの前に座る。少し深呼吸してから、ゆっくりと指を鍵盤に置いた。

ウォームアップはスケール。両手の滑らかなアルペジオに、内田は耳を澄ませる。
何かを言いかけて止め、そして首を横に振る。

「悪くない。右手のバランスも戻ってきてる。でも……」

「はい?」

「少し力が入りすぎてるように聞こえるの。怖さが抜けてないでしょ?」

璃子は小さく笑って、うなずいた。

「……バレてますね。まだちょっと、無意識に力んでるのかも」

「いいのよ。無理して隠さなくて。怖さがあるうちは、それを認めるほうが大事です」

「ありがとうございます」

少し間を置いて、璃子は静かに切り出した。

「……先生、もしかしたら、クリスマスに人前で弾くかもしれません」

「まあ、そう。ディナーコンサートみたいな形?」

「はい。まだ確定ではないんですけど、シークレットゲストとして。
名前を出すとちょっと騒ぎになりそうで……いろいろ、事務所が工夫してくれています」

内田は黙ってうなずいた。

「演奏曲も、まだ決めてなくて……でも、あまり負担のかからない曲にしたいなと」

「当然ね。それは絶対。あなたはまだ“治ったふり”で無理をする段階じゃないのよ。自分で弾ける範囲、正直に言ってちょうだい」

「はい。今の感じだと……長くて三分くらいの曲なら、右手も持ちます。でも、跳躍が多い曲とか、急にスフォルツァンドが来る曲は、ちょっとまだ怖い」

「じゃあ、そうね──たとえば、『アヴェ・マリア(カッチーニ編)』なんてどう? 柔らかくて、無理がなく、クリスマスらしさもある。音の“祈り”を伝えるにはちょうどいいわ」

「それ、いいですね……! あと、メンデルスゾーンの『歌の翼に』とか、リストの『愛の夢第3番』の一部抜粋とか……調整次第でいけるかなって」

「うん、それもいい選択。短くアレンジすれば、手首の負担も抑えられるし、“音楽として美しく終える”ことを優先しましょうね。無理をして見栄を張る時じゃないわ」

「はい。あと、クラシックの小品で、グリーグとかシューマンとか……候補としてはあるんですが、ちょっと右手の跳躍が不安で。湊さんとも相談しながら決めたいなって」

「なるほど。じゃあ、その方向で練習しつつ、身体の反応を見ていきましょう」

「はい」

再び鍵盤に向かいながら、璃子はそっと口元を引き結んだ。
手の感覚は少しずつ戻ってきている。
でもそれ以上に、心の準備のほうが問われている気がする。

そんな空気を感じ取ったのか、内田はふと柔らかく口を開いた。

「璃子さん、不安なことがあるなら……全部、湊さんに話してね」

璃子の指が止まった。

「……え?」

「あなたの弾き方、今日少し変わってたの。技術じゃなくて、心のほう。
まるで“誰かに受け止めてもらえる”って、無意識に思ってるみたいだった」

「……湊さんには、すごく甘えてしまってて。弱いところも、見せられる人なんです」

「それでいいのよ。演奏の場面だけ、ひとりにならなければいい。
あなたの音楽は、もう孤独じゃない。……そうでしょ?」

璃子は、はい、と小さく答えた。

その声は、震えているのではなく、ちゃんと“温もり”を帯びていた。
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