世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
玄関の鍵を開けると、キッチンから音がした。
静かにコートを脱いでリビングへ向かうと、湊がスープをかき混ぜていた。

「おかえり」

「ただいま。……いい匂い」

「カボチャと豆乳のスープ。冷えたでしょ」

璃子は微笑みながら湊の背中に抱きついた。
今日一日ずっと張っていた緊張が、ようやく緩む。

「どうだった? 内田先生とのレッスン」

「うん、いい感じだったよ。右手も、まだ少し怖さはあるけど、響きのコントロールとか戻ってきたって。
あとね……クリスマスコンサートの話もしたの」

湊は火を止め、スープ鍋の蓋を閉めた。

「言ったんだ」

「うん。演奏時間も三分くらいに抑える方向で、あんまり跳躍とか強打がない曲にしようって」

「それは賢明だな。曲は?」

「候補がいくつか出たの。カッチーニのアヴェ・マリアとか、『歌の翼に』とか……」

「いい選曲だ。どれも歌うようなメロディで、繊細なタッチが求められる。でも……ちゃんと弾き方の工夫しないと、逆に手首にくるよ」

璃子が椅子に腰を下ろすと、湊は向かいの椅子に座り直した。
目の前には、スコア(楽譜)のコピーが数枚。内田からもらったものだった。

湊は手を伸ばし、その中の「歌の翼に」の譜面を取り上げる。

「この曲、右手の(※)アルベルティバスのような分散和音が続く箇所……ここを一音一音強く弾くと、手首に来る。指の重さだけで鍵盤に置いて、鍵盤の重さを借りて“落とす”感じにしてごらん」

※ 18世紀に多く使われたピアノ伴奏の型

璃子は、思い出しながら手のひらをひらりと動かした。

「こう……?」

「もう少し手首を柔らかく。“弾く”より、“置く”感覚で。
あとは……ペダルをほんの少し早めに踏み替えて、音を手じゃなくて“響き”でつなぐ意識にすれば、動きが減る」

「さすが、ピアノ職人。構造と物理で来た」

「当然。音って、工夫で守れるんだよ。手首も、心も」

璃子は湊を見上げた。

「……守ってくれるんだね」

「当たり前だ。俺の一番大事なピアノは、璃子だ」

「そういうこと、さらっと言うのやめてよ……!」

顔が熱くなってうつむくと、湊はにやりと笑って近づいてきた。

「じゃあ、今度は『愛の夢』の簡略版も見てみよう。あれも候補だったんでしょ?」

「うん。でも、後半の跳躍が怖いかもって言われて」

「よし、アレンジしよう。オクターブの代わりに単音で抜いて、左手の和音で空間作れば十分美しい。
“完璧に弾く”より、“無理なく伝える”演奏にしよう」

「……ほんとに、頼りになる」

「そりゃそうだ。今日のスープは“癒し効果付き”だぞ。食べて、明日も練習できるように」

「うん、ありがとう」

璃子は湊の手を握る。鍵盤よりずっと温かいその手が、彼女の指先の不安をひとつずつ溶かしていくようだった。
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