世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
スープの湯気が、ゆらゆらと璃子の睫毛にかかる。
匙を口元に運んで、一口すすると、カボチャのやさしい甘みが舌に広がった。

「……美味しい。体に染みる」

そうつぶやいたあと、璃子はふとスプーンを止めた。
湊の顔を見つめて、ぽつりとこぼす。

「……少しずつだけどね、戻ってきてる気がするの。音が、指に。私の中に」

湊は黙ってうなずいた。璃子の言葉の重みを、よく知っているから。

「四ヶ月前なんて……もう、無理って思ってた。ピアノなんかやめる、って。
でもほんとは――悲しくて、苦しくて。どこかで、“解放されたい”って気持ちもあったのかもしれない」

スープの器をそっと置いて、璃子は視線を落とした。

「成田で湊と別れたあとね……ずっと、家で泣いてた。ほんとに、ずっと。
自分でもびっくりするくらい、涙が止まらなかったの」

湊はしばらく何も言わなかった。
その沈黙が、彼の心の揺れを伝えていた。

「……俺も、あの時、辛かった」

璃子は、少し照れくさそうに笑ってから、言葉を継ぐ。

「私たち、けっこう前から両思いだったのにね。
いつもそばにいたのに、すれ違ってばっかりで。
勝手に思い込んで、暴走して……挙げ句の果てに篠原さんと“お試し同棲”なんてしてさ……」

そこまで言って、璃子はちょっと苦笑いした。

「湊さんのこと、めちゃくちゃ苦しめてた。
だからっていうわけじゃないけど……今日はね、私、湊さんを甘やかすって決めてるの」

その瞬間――

「ぶっ!」

湊がスープを吹き出しそうになった。

「……え? 甘やかしてくれるの? 璃子が? 本気で?」

「え、本気だけど!? なにその疑いのまなざし!」

「いやいや、璃子が“甘やかす”って、どういうことするんだろうなって、すっげえ興味あるだけ」

「ちょっと! なにその“未知の珍獣を見る目”!」

湊は笑いながら、ハンドタオルで口元をぬぐった。

「いや、嬉しいよ。めちゃくちゃ嬉しい。けどさ……ちょっとこわい」

「えっ、今、失礼なこと言ったよね?」

「いやいやいや、褒め言葉だよ? 甘やかされる湊、楽しみです」

「じゃあ、覚悟しててね」

「なにを」

「“璃子式・溺愛フルコース”。今夜は逃がさないから」

「こわいこわいこわいこわいこわい」

笑い合いながら、湯気の向こうに灯る二人の顔は、どこまでも穏やかで。
あの時流れた涙も、今こうして笑って話せる日が来たのだと思うと、心がじんと温かくなった。

そして、璃子の指先は、もう一度音楽に触れようとしている。
今度こそ、無理なく、しあわせに。
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