世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
「……おはようございます、矢代さん」

璃子が、何事もなかったような顔で笑いながら、玄関先に立つ矢代を迎え入れた。

そのほんの数十分前――

「璃子、起きてる?」

寝室をノックしながら湊が声をかけると、ドアの奥からくぐもった声が返ってくる。

「……湊〜、起こしてぇ」

(起きてるなら自分で起きなさいっての)

そう思いつつも、湊はドアを開けて部屋に入った。

ベッドの上で目だけ開けた璃子が、湊の方へ手を伸ばす。

「お姫様ですか、あなたは」

やれやれと笑いながら起こそうとしたその瞬間、璃子がいきなり腕を回して抱きついてきた。

「今日は……ずっとこのままでいい」

「……今日は練習だろ。矢代さん、様子見に来るって言ってたよ?」

「えっ!? 聞いてないんだけど!?」

布団を跳ね飛ばし、一気に表情を引き締めて身支度に取りかかる璃子。その姿を眺めながら、湊は小さく笑う。

(……まあ、たまにはいいか。甘えたい朝もあるよな)

結果的に、きっちり時間内に準備を済ませ、プロの顔に戻った璃子が玄関先に立っていた。

「どうぞ、お入りください。湊も準備してますので」

「失礼します」
矢代は軽く会釈して部屋に上がる。

「コーヒー、いれましょうか?」
璃子が尋ねると、矢代は一瞬目を細めたあと、静かにうなずいた。

「ええ、ぜひ。……では、本題に入りましょうか。クリスマスの件、曲目の件でご相談があります」

その言葉に、璃子と湊が目を合わせる。

ふたりの間に一瞬だけ交わされた無言の合図。

さっきまでのぬくもりは、そっと心にしまって。

舞台へ向けた、新しい一日が、始まった。
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