世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
朝の甘ったるい空気が嘘みたいだった。

湯気の立つコーヒーをテーブルに置き、譜面の入ったファイルを開く。
璃子はといえば、湊の隣でまだ若干目がとろんとしている。

「……璃子、寝てるのか」

「起きてるよ…。ちゃんと見てるよ」

「“見てる”だけじゃ意味がない」

静かに、だが明確に線を引くように言った。

璃子が小さく肩をすくめる。
ついさっきまで湯たんぽみたいにくっついていた彼女が、今は椅子の上で真面目な顔をしようと必死になっている。

湊はため息をひとつ吐いて、譜面の一番上を指でトンと叩いた。

「この『サンタが街にやってくる』のアレンジ、手首に負担かかるリズム刻みが多い。左手主導の箇所をもう少し間引くか、テンポ落として重厚に仕上げた方がいい。クラシカルに振るなら、音数で勝負しなくていい」

「う、うん……やってみる……」

「やってみる、じゃなくて。ここで、やって」

ぴしっとした声に、璃子がハッと背筋を伸ばす。
ソファの上で甘やかされていた時とは、まるで別人のような湊に、空気が切り替わったのが分かった。

そして、ピアノに向かい直した璃子の演奏を聴きながら、湊は細かく耳を澄ませる。

――音の粒立ち、フレーズの方向性、余計な力が入っていないか。

「もう少し重心下げて。右手に意識が行きすぎてる」

「……はい」

「“はい”だけで直らないときは、体を使って覚える」

璃子の手を取り、体の角度を直し、肘の高さを調整する。

まるで舞台前の特訓だ、とふと感じたとき、後ろからぽつりと矢代の声が落ちた。

「……金城さんって、もっと甘やかすタイプかと思ってましたよ」

湊は振り向かずに答えた。

「プロですから。……コンサートに出るってことは、甘えと覚悟は別にしてもらわないと困ります」

「なるほど」

矢代の口元に、ほんの少し笑みが浮かんでいるのが分かった。
彼なりに璃子の“今”を、きちんと見ているという証拠だろう。

「はい、もう一回いくよ。今度は、少しテンポを落として。手首の角度、さっきと一緒」

「……はい!」

璃子の声が、先ほどより少しだけ芯を持って返ってきた。
きっと今、彼女の中に“演奏者”が戻ってきている。

湊は小さくうなずきながら、そっとペダルに視線を落とした。

――今日はまだ、始まったばかりだ。
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