世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
璃子がピアノの前で指を慣らしている間、湊はさりげなく矢代と目を合わせた。

音を邪魔しないよう、声のトーンは控えめに。

「……本番、何曲予定してますか?」

「正味で三曲。MCを挟んで全体で二十分程度を想定してます。あくまで“シークレットゲスト”ですからね。目立ちすぎるのも逆効果です」

「同感です。……『サンタが街にやってくる』はジャズ寄りの軽いアレンジにして前半に。中盤にしっとり系、締めにクラシックの小品を置く流れはどうですか?」

「良いと思います。後半のクラシック小品……候補は?」

「今はグリーグの『ノルウェー舞曲』の一部を検討しています。動きに軽さがあって華やかさもある。ただ、右手の跳躍が多いので、最終的に変更するかもしれません」

「候補はありますか?」

「ショパンの『ノクターン第20番 嬰ハ短調(遺作)』、あるいはシューマンの『子供の情景』の中から一曲。
それと、内田先生からは“祈り”のような曲として『アヴェ・マリア(カッチーニ編)』や、メンデルスゾーンの『歌の翼に』、リストの『愛の夢第3番』なども提案されています」

「どれも“強さ”より“響きの深さ”を感じさせる曲ですね。彼女の“今”に合ってる」

湊は静かにうなずいた。

「構成次第で印象は変えられます。彼女が音を鳴らせること。それがいちばん大事です」

矢代はうなずき、タブレットに素早くメモを取った。

「会場側には、シークレット扱いの演奏者がいることと、ピアノのメンテに万全を期してほしいとだけ伝えています。KANERO側には?」

「調律は僕がやります。彼女の音に一番合う調整にしたいので」

「頼もしいですね」

湊はちらと璃子の背中を見やった。
まだ音に少し迷いがある。それでも、以前のように指が止まることはない。

「……手首の具合はまだ完全じゃない。無理をさせない構成にしましょう」

「了解です。彼女の“今の実力”を活かす方向で」

「あと一つ、演出について提案があるんですが」

「どうぞ」

湊は腕を組み、ほんのわずか口元を引き締めた。

「彼女の登場タイミング──照明を暗転して、完全にシルエットだけにしませんか。誰かわからないように登場して、最初の音で空気を変える。そうすれば観客の意識が“誰か”ではなく“音”に集中する」

矢代の目がわずかに細められた。
理性と感覚、どちらにも訴える提案だと判断した時の表情だ。

「……面白いですね。視覚の情報を絞ることで、耳が開く。確かに、彼女の演奏にはそれだけの力がある。導入、強調しておきましょう」

湊はうなずいた。
舞台に立つ者が誰かより、どんな音を鳴らすのか──それが、彼女の本当の勝負だ。

背後で、璃子のピアノが小さく響いた。
まだ少し揺れるが、それでも、以前よりずっとしなやかに流れている。

その音に、湊は静かに耳を澄ませる。
音に宿るものを、決して言葉で壊さぬように。

──この音を、守りたい。
彼女が、自分のために鳴らしている音楽を。

それが、湊にとっての答えだった。
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