世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
KANEROの練習室。
窓の外は、薄く冬の日差しが落ちていた。
璃子は、ピアノの前にスコアを広げ、マーカーや付箋でカラフルになった資料をめくりながら、静かに譜読みを進めていた。
クリスマスコンサート本番まで、あと7日。
演出案の大枠も決まり、今日からは“通しの自主練”が始まった。
曲目は、静かな導入とドラマティックな中盤、そして再び優しく心を包むような終曲。
食事の出される空間、照明の演出、そして“シークレットゲスト”という前提に合わせ、演奏時間はやや短め。
けれど、それでも十分すぎるほど濃密な構成だった。
(この一曲一曲に、どんな気持ちを込めるか――)
手首の痛みはもうほとんどない。
けれど、まだ本気のフォルテや連打には慎重になる。
それでも。
(音に向き合えるって……やっぱり嬉しい)
そう思った矢先だった。
机の上に置いたスマートフォンが震える。
表示された名前を見て、璃子の頬がふっと緩んだ。
「……湊さん?」
「もしもし。今、大丈夫?」
「うん。ちょうど練習ひと段落したところ。どうしたの?」
湊の声は落ち着いていたが、どこか少し急いだ気配があった。
「さっき決まったんだけど――来週、俺シンガポールに行くことになった」
「えっ?」
「網浜優也、覚えてる? 去年からKANEROがバックアップしてる新人」
「うん……18歳の。確か、国際ジュニア部門の常連で……」
(すらりと長身、物静かだけど芯のある音を弾く男の子――)
璃子は、去年KANEROの内覧会で彼と一度だけ同席したのを思い出した。
そのとき彼はまだ高校三年生で、楽譜を忘れて丸暗記でショパンを弾いていた。
「そう、あの網浜。来週、彼が『東南アジア・ユースピアノ・ショーケース』に出る」
「シンガポールでの……?」
胸の奥がかすかに波立つ。
それは璃子自身が、高校卒業直後に初めて参加した国際舞台でもあった。
まだ右も左もわからず、戸惑いながら弾いたマスタークラス。
審査員の言葉に一喜一憂し、海外のピアニストたちの大胆な表現に打ちのめされた日々。
けれど、それがあったから――今の自分がある。
「……川村さんが同行する予定だったけど、出発直前に事故で右腕を骨折してな。代わりに俺が同行することになった」
「そうなんだ……」
心のどこかが、少し寂しく鳴った。
けれど、すぐに璃子はそれを押し込めた。
「湊さんが一緒に行けるなら、優也くんも心強いと思う。あの子、音は綺麗だけど、ちょっと自分を出すのが苦手そうだったから」
「……よく見てたな」
「ふふ。KANEROのパーティーで同じテーブルだったのよ」
電話の向こう、湊が短く笑った。
「本番には戻ってくる。時間ギリギリになるかもしれないけど」
「うん。信じてる」
璃子は笑った。
「だから私も、今できる音を、ちゃんと仕上げておく。あのとき、シンガポールでの初舞台で“本番の怖さ”を知った私が、今どう弾けるか、湊さんにも見てほしいから」
しばし、沈黙。
「……わかった。じゃあ俺も向こうで、ちゃんと音と向き合ってくる」
「気をつけてね。向こう暑いから、のぼせないように」
「璃子に言われたくないけどな」
ふと、笑い合って、電話が切れた。
璃子は再びスコアを手に取り、ピアノの前に座る。
“今できることを、今やるだけ”
その想いだけを込めて、鍵盤に指を置いた。
窓の外は、薄く冬の日差しが落ちていた。
璃子は、ピアノの前にスコアを広げ、マーカーや付箋でカラフルになった資料をめくりながら、静かに譜読みを進めていた。
クリスマスコンサート本番まで、あと7日。
演出案の大枠も決まり、今日からは“通しの自主練”が始まった。
曲目は、静かな導入とドラマティックな中盤、そして再び優しく心を包むような終曲。
食事の出される空間、照明の演出、そして“シークレットゲスト”という前提に合わせ、演奏時間はやや短め。
けれど、それでも十分すぎるほど濃密な構成だった。
(この一曲一曲に、どんな気持ちを込めるか――)
手首の痛みはもうほとんどない。
けれど、まだ本気のフォルテや連打には慎重になる。
それでも。
(音に向き合えるって……やっぱり嬉しい)
そう思った矢先だった。
机の上に置いたスマートフォンが震える。
表示された名前を見て、璃子の頬がふっと緩んだ。
「……湊さん?」
「もしもし。今、大丈夫?」
「うん。ちょうど練習ひと段落したところ。どうしたの?」
湊の声は落ち着いていたが、どこか少し急いだ気配があった。
「さっき決まったんだけど――来週、俺シンガポールに行くことになった」
「えっ?」
「網浜優也、覚えてる? 去年からKANEROがバックアップしてる新人」
「うん……18歳の。確か、国際ジュニア部門の常連で……」
(すらりと長身、物静かだけど芯のある音を弾く男の子――)
璃子は、去年KANEROの内覧会で彼と一度だけ同席したのを思い出した。
そのとき彼はまだ高校三年生で、楽譜を忘れて丸暗記でショパンを弾いていた。
「そう、あの網浜。来週、彼が『東南アジア・ユースピアノ・ショーケース』に出る」
「シンガポールでの……?」
胸の奥がかすかに波立つ。
それは璃子自身が、高校卒業直後に初めて参加した国際舞台でもあった。
まだ右も左もわからず、戸惑いながら弾いたマスタークラス。
審査員の言葉に一喜一憂し、海外のピアニストたちの大胆な表現に打ちのめされた日々。
けれど、それがあったから――今の自分がある。
「……川村さんが同行する予定だったけど、出発直前に事故で右腕を骨折してな。代わりに俺が同行することになった」
「そうなんだ……」
心のどこかが、少し寂しく鳴った。
けれど、すぐに璃子はそれを押し込めた。
「湊さんが一緒に行けるなら、優也くんも心強いと思う。あの子、音は綺麗だけど、ちょっと自分を出すのが苦手そうだったから」
「……よく見てたな」
「ふふ。KANEROのパーティーで同じテーブルだったのよ」
電話の向こう、湊が短く笑った。
「本番には戻ってくる。時間ギリギリになるかもしれないけど」
「うん。信じてる」
璃子は笑った。
「だから私も、今できる音を、ちゃんと仕上げておく。あのとき、シンガポールでの初舞台で“本番の怖さ”を知った私が、今どう弾けるか、湊さんにも見てほしいから」
しばし、沈黙。
「……わかった。じゃあ俺も向こうで、ちゃんと音と向き合ってくる」
「気をつけてね。向こう暑いから、のぼせないように」
「璃子に言われたくないけどな」
ふと、笑い合って、電話が切れた。
璃子は再びスコアを手に取り、ピアノの前に座る。
“今できることを、今やるだけ”
その想いだけを込めて、鍵盤に指を置いた。