世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
成田空港・国際線出発ロビー。

人波のざわめきと、案内放送の音が交錯する中で、湊は静かに川村正義の姿を探した。

一歩遅れてついてくる優也は、まるで口をきけない小動物のように俯いたまま、手荷物をしっかりと握っていた。

(……ガチガチだな)

初めて国際舞台に立つ若者には、空港の空気すら試練になる。

そして、それを一番よくわかっているのが――

「金城くん」

声のした方を見ると、腕にギプスを巻いた川村正義がこちらへ向かってきていた。
飄々とした人柄ながら、音への信頼と調律への情熱は社内でも群を抜いていた職人だ。

「今回は、ほんと申し訳ない。あと数センチずれてたら、骨にヒビも入らなかったんだがな」

「いいえ、くれぐれも無理しないでください。後は引き受けます」

湊は穏やかに頭を下げた。

その背後から、そっと顔を覗かせるようにして出てきたのは、優也の母親だった。
50代前半に見える上品な女性で、にこやかに頭を下げると、小声で言った。

「金城さん……本当にお世話になります。あの子、今朝からほとんど言葉を発していないんです」

「大丈夫です。僕も初めてコンクールで海外に行ったときは、食事も喉を通りませんでした」

優しく笑うと、優也の母の肩が少しだけ緩んだ。

「……行ってきます」

ようやく、優也が蚊の鳴くような声で言った。
けれど、彼の手は握りしめられたままで、汗ばんだ指が震えていた。

湊は軽くその肩に手を置いた。

「よし、じゃあ行こうか。優也、ピアノ以外は全部俺に任せていい。君は、音だけに集中すればいいから」

優也が驚いたように顔を上げた。

「こわいと思ってるの、知ってる。でも、怖いと思えるのはちゃんと向き合ってる証拠だからな」

「……はい」

少しだけ、唇が引き結ばれる。

川村が言った。

「金城くん、気をつけて。あいつ、意外と繊細だけど、芯は通ってる」

「ええ。大丈夫です」 

そうして3人はゲートへ向かい、搭乗手続きを終える。

飛行機への連絡通路に入る前、湊は振り返りながら優也に声をかけた。

「行こう。今日から君の音が、世界に触れる日だ」

優也は、深く息を吸い込み――小さく、けれど確かにうなずいた。

そして3人は、シンガポールへと旅立った。
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