世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
創が、湯のみを置いて立ち上がると、ふと笑って言った。
「ちょっと久しぶりに聞かせてよ。お母さまがいらっしゃると、なかなか聞けないからさ」
その言葉に、璃子は肩をすくめるようにして笑った。
「え、恥ずかしいです。準備もしてないし……」
すると創は、すぐに湊に目をやりながら、からかうように言った。
「いや、僕たちとレベル違うんだから。思いっきり間違っても“味”としか思わないんだよ」
湊も笑ってうなずいた。
「ほんとに。むしろ、その“味”を盗みたいぐらいです」
璃子は少しだけ口元を緩め、気を取り直したように椅子へと歩いた。
「じゃあ……少しだけ」
彼女が手を置いたのは、シューマンの《アラベスク 作品18》。
派手ではないけれど、繊細なニュアンスが求められる曲。
優しく、どこか懐かしく、それでいて心の奥に触れるような旋律。
静かに、指が鍵盤をなぞる。
最初の一音が鳴った瞬間、部屋の空気がやわらかく色を変えた。
温度が一度、下がったような。
あるいは、音の粒が空気中に透明な光を灯したような。
璃子の体は、音と一緒に静かに揺れ、迷いも力みもないフォームから紡がれる旋律が、ふたりの男の胸の奥に、しずかに入り込んでいく。
創は腕を組んで、じっとその音に耳を澄ませていた。
湊もまた、余計な言葉は発さず、ただそのひとつひとつの音が、どんな調律の上に立っているのか――そんな職人の目線で、そして演奏者としての心で、受け止めていた。
曲は、穏やかに、終わる。
最後の和音が空気に溶けていくのを待つように、誰もすぐには口を開かなかった。
璃子は、手を鍵盤の上からそっと引き、顔を上げる。
「……こんな感じで、すみません」
創は、少し口角を上げてうなずいた。
「すばらしいよ。……やっぱり、君のピアノには“景色”があるね」
湊は、まっすぐに璃子を見て言った。
「言葉、いらないって、こういうことなんですね」
璃子は、小さく息をついた。
久しぶりに、演奏が誰かのために、誰かと共有される喜びになった気がした。
「ちょっと久しぶりに聞かせてよ。お母さまがいらっしゃると、なかなか聞けないからさ」
その言葉に、璃子は肩をすくめるようにして笑った。
「え、恥ずかしいです。準備もしてないし……」
すると創は、すぐに湊に目をやりながら、からかうように言った。
「いや、僕たちとレベル違うんだから。思いっきり間違っても“味”としか思わないんだよ」
湊も笑ってうなずいた。
「ほんとに。むしろ、その“味”を盗みたいぐらいです」
璃子は少しだけ口元を緩め、気を取り直したように椅子へと歩いた。
「じゃあ……少しだけ」
彼女が手を置いたのは、シューマンの《アラベスク 作品18》。
派手ではないけれど、繊細なニュアンスが求められる曲。
優しく、どこか懐かしく、それでいて心の奥に触れるような旋律。
静かに、指が鍵盤をなぞる。
最初の一音が鳴った瞬間、部屋の空気がやわらかく色を変えた。
温度が一度、下がったような。
あるいは、音の粒が空気中に透明な光を灯したような。
璃子の体は、音と一緒に静かに揺れ、迷いも力みもないフォームから紡がれる旋律が、ふたりの男の胸の奥に、しずかに入り込んでいく。
創は腕を組んで、じっとその音に耳を澄ませていた。
湊もまた、余計な言葉は発さず、ただそのひとつひとつの音が、どんな調律の上に立っているのか――そんな職人の目線で、そして演奏者としての心で、受け止めていた。
曲は、穏やかに、終わる。
最後の和音が空気に溶けていくのを待つように、誰もすぐには口を開かなかった。
璃子は、手を鍵盤の上からそっと引き、顔を上げる。
「……こんな感じで、すみません」
創は、少し口角を上げてうなずいた。
「すばらしいよ。……やっぱり、君のピアノには“景色”があるね」
湊は、まっすぐに璃子を見て言った。
「言葉、いらないって、こういうことなんですね」
璃子は、小さく息をついた。
久しぶりに、演奏が誰かのために、誰かと共有される喜びになった気がした。