世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
湊と創は、道具を手際よく並べると、ピアノの蓋を開け、無言で息を合わせながら調律を始めた。
音叉が澄んだ音を立て、湊がハンマーで弦を微調整する。創は横でメモを取りながら、時折軽く頷く。
まるで手術のように静かで、集中した空気だった。
璃子は、その様子を近くの椅子に腰掛けて見つめていた。
いつもなら平気なはずなのに、今日は、どうにも胸のあたりが重い。
慣れない着物の帯がきつく、呼吸が浅くなっていたことに気づく。
視界の端がぼやけ、軽い吐き気がした。
思わず額に手をあてると、そのときふいに湊と目が合った。
璃子は、条件反射のように目をそらした。
けれど、湊はそのまま視線を逸らさずにいた。
何も言わず、けれど何かを察したように。
「璃子さん、大丈夫ですか?……顔色が悪いですが」
彼の声に、創も手を止めてこちらを見る。
「え、ほんと?……こっちは任せて、ちょっと休んできていいよ」
璃子は慌てて首を振った。
「いえ、大丈夫です。着物に慣れてなくて……ちょっと苦しくて」
「ああ、それなら」
創が頷いて言った。
「もうお正月の来客も終わったんですよね?だったら、着替えられてはどうですか?まだ調律、もう少しかかるし」
璃子は、数秒遅れて「はい」と答えた。
その声が、自分でも意外なほど、柔らかかった。
胸の中に、ふっとあたたかいものが広がる。
――ああ、久しぶりに、“ちゃんと”いたわってもらえた気がする。
小さな体調の変化を、誰かが気にかけてくれる。
無理しなくていいよ、と言ってくれる。
それだけのことで、心が少しほどけていく。
思い返せば、母はいつも違った。
コンクールの直前に、胃が痛くなっても、指が冷たくなっても、
「それくらいで緊張してどうするの」
「そんなことで一流になれるわけないでしょう」
励ましのようでいて、どこか責めるような言葉ばかりだった。
心配の一言もなく、弱さは許されなかった。
「弱みを見せるな」「強くあれ」
それが、母の口癖だった。
璃子は、ゆっくりと立ち上がる。
襟元を押さえながら、ふたりに頭を下げた。
「……すぐ着替えてきます」
湊は軽く会釈し、創は「無理しないで」と優しく言った。
璃子は静かに廊下を歩きながら、知らず知らず、心の奥がじんわりと、あたたかくなっていることに気づいた。
音叉が澄んだ音を立て、湊がハンマーで弦を微調整する。創は横でメモを取りながら、時折軽く頷く。
まるで手術のように静かで、集中した空気だった。
璃子は、その様子を近くの椅子に腰掛けて見つめていた。
いつもなら平気なはずなのに、今日は、どうにも胸のあたりが重い。
慣れない着物の帯がきつく、呼吸が浅くなっていたことに気づく。
視界の端がぼやけ、軽い吐き気がした。
思わず額に手をあてると、そのときふいに湊と目が合った。
璃子は、条件反射のように目をそらした。
けれど、湊はそのまま視線を逸らさずにいた。
何も言わず、けれど何かを察したように。
「璃子さん、大丈夫ですか?……顔色が悪いですが」
彼の声に、創も手を止めてこちらを見る。
「え、ほんと?……こっちは任せて、ちょっと休んできていいよ」
璃子は慌てて首を振った。
「いえ、大丈夫です。着物に慣れてなくて……ちょっと苦しくて」
「ああ、それなら」
創が頷いて言った。
「もうお正月の来客も終わったんですよね?だったら、着替えられてはどうですか?まだ調律、もう少しかかるし」
璃子は、数秒遅れて「はい」と答えた。
その声が、自分でも意外なほど、柔らかかった。
胸の中に、ふっとあたたかいものが広がる。
――ああ、久しぶりに、“ちゃんと”いたわってもらえた気がする。
小さな体調の変化を、誰かが気にかけてくれる。
無理しなくていいよ、と言ってくれる。
それだけのことで、心が少しほどけていく。
思い返せば、母はいつも違った。
コンクールの直前に、胃が痛くなっても、指が冷たくなっても、
「それくらいで緊張してどうするの」
「そんなことで一流になれるわけないでしょう」
励ましのようでいて、どこか責めるような言葉ばかりだった。
心配の一言もなく、弱さは許されなかった。
「弱みを見せるな」「強くあれ」
それが、母の口癖だった。
璃子は、ゆっくりと立ち上がる。
襟元を押さえながら、ふたりに頭を下げた。
「……すぐ着替えてきます」
湊は軽く会釈し、創は「無理しないで」と優しく言った。
璃子は静かに廊下を歩きながら、知らず知らず、心の奥がじんわりと、あたたかくなっていることに気づいた。